トップ > 組織案内 > 県教育委員会の組織(課室等) > 埋蔵文化財センター_遺跡トピックスNo.0042円楽寺六角堂跡
ページID:4527更新日:2017年5月10日
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甲府市の遺跡(甲府城関連・曽根丘陵公園を除く)
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円楽寺六角堂跡[えんらくじろっかくどうあと][写真:六角堂を遠くから見た風景] 六角堂跡の調査は、中世寺院について文化財としての位置づけを明らかにし、保存活用を進めるための「山梨県内中世寺院分布調査」(平成16~20年度)の一環として平成17年12月~18年3月の間、実施しました。 六角堂跡は、甲府市右左口町(旧中道町)にある円楽寺の旧境内地で、円楽寺前方の尾根の上にあります。 この円楽寺は、県内でも有数の歴史をもつ真言宗の古刹で、富士山信仰などの修験道を世に広めた役行者(えんのぎょうじゃ)によって開かれたとの伝承も知られています。 今回の発掘調査によって、建物が建っていた基壇や礎石などが明らかになりました。通常は礎石の配列からだけでどんな建物だったかを考えるのは難しいのですが、実際は、昭和34年の台風により倒壊するまでは、次にあげる絵画資料のような六角形の建物が建っていたのです。
所在地:甲府市右左口町岩窪 時代:中世・近世 調査機関:山梨県教育委員会・山梨県埋蔵文化財センター これが六角堂跡だ![写真上:発掘された六角堂] [写真左:明治時代の文献に見える六角堂写真右:在りし日の六角堂]
六角堂の建物は、室町時代から江戸時代にかけて隆盛した「六十六部廻国納経」の中で、甲斐国を代表する納経所との位置づけがなされています。明治時代に刊行された『日本社寺明鑑』の円楽寺の項には、行者堂と並び建つ六角堂の鳥瞰図が見られますが、これにより当時の姿をうかがうことができます。
六角形に配された礎石の中心には、現在、宝篋印塔(ほうきょういんとう)がすえられています。この宝篋印塔の基礎の左側面には、直径10センチほどの穴が開けられており、納経の際、経典が投入されたとの伝えもありますが、それが本来の姿かどうかはさらに検討していく必要がありそうです。
六角堂の建物跡の周囲には、人の頭ほどの自然石を階段状に積んだ状態が見られました。これは基壇と見ることができますが、建物の正面方向に当たる東側では高さ1.5mほどに整然とつくられていますが、反対の西面では明瞭さを欠くものとなっています。基壇下の北東側平坦面には、廻国納経の記念碑が倒れた状態で残っていますが、その銘文には「武州」や「下総」など、関東から納経者が訪れたことを物語る情報が確認され、全国各地に納経してまわる信仰の一端を窺い知ることができます。
当時はるばるこの地へやってきた人々は、何を思い、どんな気持ちでこのお堂の前に立ったのでしょうか。 |