トップ > 組織案内 > 県教育委員会の組織(課室等) > 埋蔵文化財センター_遺跡トピックスNo.0269百々遺跡 黒色土器
ページID:34751更新日:2017年5月30日
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百々遺跡(どうどういせき)は南アルプス市にある遺跡で、平安時代の集落が発見されています。甲西バイパス道路・中部横断自動車道の建設工事に伴い、平成11年度から12年度までの2年にわたり発掘調査が行われました。遺跡からは、251軒の竪穴住居跡が発見され、八稜鏡や錘などが出土しており、税を集める役所などが置かれた大規模な集落であったと考えられています。 百々遺跡の詳細については、過去の遺跡トピックスをご覧ください。 黒色土器写真の土器は、南アルプス市の百々遺跡から出土した平安時代(約1,100年前)の黒色土器(こくしょくどき)です。黒色土器は、土師器(はじき)と呼ばれる素焼きの土器の内側が黒い土器のことで、内黒土器(うちぐろどき)と呼ばれたりもします。 縄文土器や弥生土器にも言えることですが、素焼きの土器は表面に細かいすきまがあり、水分が土器にしみこんでしまうため、水などの液体を入れておくことができません。黒色土器は、土器の内側をていねいに磨き、黒い物質ですきまを埋めることで水分がしみこまないように工夫されています。どのようにして土器を黒くしたのかはわかっていませんが、・黒漆(うるし)や動物性の脂(あぶら)などを塗る・火を燃やしたときにでる黒い煙(炭素)をくっつけるなどの方法が考えられています。 百々遺跡からは、山梨県内で作られた甲斐型土器の黒色土器と甲斐型土器とは異なる特徴を持った黒色土器が出土しています。甲斐型土器は赤いきめの細かい土で作られるのに対して、もう一方の黒色土器は白っぽいざらざらした土で作られています。このような黒色土器は長野県内で出土する土器によく似ていることや、山梨県内では、甲府盆地の西部や北巨摩地域を中心に多く出土していることから、長野県側から持ち込まれたか、その影響を受けて製作されたと考えられています。 黒色土器が出土するようになる時期は平安時代の中頃(9世紀後半)ですが、この時期は東海地方で作られるようになった灰釉陶器(かいゆうとうき)が全国に出回り始め、各地で作られていた須恵器(すえき)が姿を消していく時期にあたります。山梨県内でも須恵器は作られていたようですが、信州(長野県)など他の地域から持ち込まれていました。須恵器も灰釉陶器も窯(かま)を使って高温で焼くため、水がしみこみません。しかし、灰釉陶器は役所やお寺などで使われる高級品であり、一般庶民が使うことはできませんでした。そこで、須恵器の代用品として黒色土器が信州地方から伝わり、甲斐型土器にも同じ加工がされるようになったと考えられます。 〔写真:左〕甲斐型土器の黒色土器(上:内側、下:外側) 土器の内側には、甲斐型土器の特徴のひとつである暗文(あんもん:先の細い工具を押し当てたすじ)が見られます。 〔写真:右〕信州系の黒色土器(上:内側、下:外側) 外側はざらざらしていますが、内側はていねいに磨かれて光っています。
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