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ページID:79929更新日:2017年5月24日
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写真:3号方形周溝墓の全体のようす
下西畑遺跡は、甲州市塩山赤尾地内にある、古墳時代前期を中心とする遺跡です。遺跡は甲州市を北から南へ流れる重川左岸の少し高い台地上にあり、一般国道411号(通称塩山東バイパス)建設のため、平成9から10年度まで発掘調査がおこなわれました。調査の結果、古墳時代前期(約1,600年前)のお墓のほか、縄文時代中期(約5,000年前)のムラのあとや奈良・平安時代(約1,100年前)の竪穴住居跡などがみつかりました。
遺跡で発見された古墳時代前期のお墓は、方形周溝墓と呼ばれるもので、お墓のまわりに溝をめぐらし、溝の内部に土を盛り上げて中央部に遺骸を埋めました。溝の一部は掘り残され、墓の内側へ渡るための橋(ブリッジと呼ばれています)となっており、ここを通って死者を中央部へ埋めます。方形周溝墓にはこの地域の有力人物が葬られたのでしょう。甲州市塩山地域では、現在の塩山警察署である西田遺跡でも同時期の方形周溝墓が調査されています。
このような状況は、古墳時代前期にこの地域の有力者たちが、その証である方形周溝墓をさかんに造るようになったことを示しています。また同時期には甲府盆地南部の曽根丘陵地域で、東日本最大級の前方後円墳である甲斐銚子塚古墳が造られています。
遺跡名:下西畑遺跡
所在地:山梨県甲州市塩山赤尾地内
時代:縄文時代中期・古墳時代前期・奈良時代・平安時代
報告書:山梨県埋蔵文化財センター調査報告書第196集『下西畑遺跡・西畑遺跡・影井遺跡・保坂家屋敷墓ー国道411号(塩山東バイパス)建設工事に伴う発掘調査報告書ー』
調査機関:山梨県埋蔵文化財センター
遺跡では、合計4基の方形周溝墓がみつかりましたが、特に3号方形周溝墓からは墓の主を葬るときに使用された、たくさんの土器が出土しました。中でもブリッジより左側の溝からは、土器が集中して出土しました。おそらくこの部分で死者を送るマツリを行っていたようです。この部分から出土した土器の中に、写真のように真っ赤に塗られた壺がありました。この壺は縁が二段になる二重口縁壺(にじゅうこうえんつぼ)で、方形周溝墓や古墳など、主にお墓で出土するものです。
この真っ赤に塗られた二重口縁壺、反対側の溝からも形や大きさがそっくりなものが出土しました。そしてこの2点の壺の底部分には、それぞれ孔が開けられていました。孔を見ると、土器を焼く前に開けられていました。おそらくこの2点の壺はマツリ用の土器として、生きている人たちが使えないように、わざと底の部分に孔が開けられているのだと思います。
古墳時代前期には、まだ全国的に文字がないため、当時の様子を詳しく知ることはできません。しかし、この2点のそっくりな壺の出土状況から、当時の人々が意識的に壺を対角の溝に置いて、マツリをおこなったことがわかります。また底の部分に孔が開けられていることから、あの世の土器と現世の土器を共有しないこともわかりました。このような類似した二重口縁壺をセットで用いる事例は、甲府市榎田遺跡や笛吹市の諏訪尻遺跡など別の方形周溝墓でも見られ、甲府盆地内で行われていた風習のようです。この双子の二重口縁壺が当時のマツリのようすを教えてくれるのです。
写真:3号方形周溝墓から出土した二重口縁壺。右はブリッジ脇の溝から出土したもの。左はブリッジ対角付近の溝から出土したもの。
写真左:二重口縁壺の底部。焼く前に孔があけられている。
写真右:二重口縁壺出土のようす。たくさんの土器とともに出土した。この場所で死者を送るマツリがおこなわれたのかもしれない。