更新日:2022年11月10日
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江野澤伸一氏
霊峰富士の北麓に位置し、富士五湖のうち4つの湖を有する山梨県富士河口湖町。町の南西部にある富士ヶ嶺地区は、戦後に入植した開拓団によって切り拓かれた地域で、乳牛をはじめ、肉牛や豚、鶏など、さまざまな畜産経営が行われています。
富士ヶ嶺地区で“酪農と肉牛繁殖の複合経営”に取り組んでいる江野澤さんは、牛へ深い愛情を注ぎ、高品質な生乳や肥育用の子牛を生産しています。2021年には第53回山日YBS農業賞で最高賞である農業賞を受賞。これまでの道のりや牛にかける想いを伺いました。
富士河口湖町富士ヶ嶺地区は、富士山の裾野に広がる標高1,000mの高冷地。のどかな牧草地帯にある江野澤さんの牛舎を訪れると、リラックスしてくつろぐ牛たちが、穏やかな表情で出迎えてくれました。
「乳牛はおっとりしていて、肉牛は少し神経質なところがある。性格はそれぞれだけど、愛情をたっぷりと注がれて快適に過ごしている牛は、人が近づいても穏やかで落ち着いている」とやさしい笑顔で話す江野澤さん。牛は人間のようにしゃべることができないので、自分が牛だったらどう考えるかを常に想像し、大切な家族や従業員のように接しているそう。
手間や経費を惜しまないことが、品質や生産性の向上につながると考える江野澤さんは『牛たちの食事』を大事にしています。「医食同源という言葉があるように、良質でバランスの取れた食事を十分に与えることで、健康に育ち、乳牛では生乳の質が高まり、量も多くなる」と教えてくれました。
健康的で快適に生活できるよう配慮するアニマルウェルフェアを意識する江野澤さん。牛舎内を毎日3時間ほどかけて清掃し、常に清潔に保っています。また、脚の怪我や転倒を予防するためにクッション性の高い飼育マットやおがくずを使用するほか、ストレス軽減を図るカウブラシの設置、県内の酪農家で初めて、ベッドの仕切りに柔軟性に優れた部材を採用するなど、牛舎内の環境をよくする工夫も凝らしています。
「産業動物である以上、別れはやってくる。うちにいる間は最大限の愛情を持って牛に接したい」江野澤さんの根底にある牛への想いは、優しいご両親から子供の頃に学んだものです。
江野澤さんのお祖父様が、戦後に横浜から富士ヶ嶺地区へ入植。当時はだいこん栽培と出稼ぎで生計を立てていたそうですが、連作障害(注1)によってだいこん栽培ができなくなり、お父様は会社勤めを始めました。
1965年、江野澤さんが5歳のときに、お母様が乳牛2頭を飼い始めて始まった酪農経営。「牛たちに、もっと優しく接しなさい」と教えられたことは、子供ながらに心に残ったそう。高校卒業後に継ぐことを決意し、1年間の研修を経て、20歳で経営を継承。当時10頭だった乳牛を、その後20年で60頭まで増やし規模を拡大させていきました。
経営の転機が訪れたのは2010年。大病を患ったことで、断腸の思いで乳牛を20頭ほど手放して規模を縮小したそうです。その後、体調は順調に回復し、「空いたスペースを遊ばせておくのはもったいない」と黒毛和牛の繁殖牛を導入。富士ヶ嶺地区では初となる酪農と肉牛繁殖の複合経営となりました。
子牛の管理は奥様の光子さんが担当。一頭一頭よく観察して成長段階に応じた飼料を与えることで、健康的な子牛を育て、県内外の肉牛農家へ供給しています。
(注1)連作障害:同じ農作物を同じ畑で繰り返して栽培すると、土壌中の養分が偏り生育が悪くなったり、土壌病害の発生が多くなったりすること。
「技術は日進月歩」と話す江野澤さんは、県内外の酪農家や肉牛農家と積極的に交流することで技術や知識を学び、情報交換することを大切にしています。その中で強く感じたのは、乳牛の改良の重要性。健康で長く生産を続けられる「長命連産」という考え方を基本に、質の高い「乳成分」、より多い「生涯乳量」、搾乳しやすく怪我をしにくい「体型」の3つを目標に、優秀な従業員を育て上げるように改良を重ねています。その成果は、乳牛のオリンピックといわれる全日本ホルスタイン共進会という品評会で、2015年に山梨初の1等賞を受賞。県内乳牛の能力向上に大きな貢献をしています。
江野澤さんのこだわりは、搾乳作業にも。1頭ごとに乳頭を拭うタオルを交換、牛たちの体が汚れないよう牛舎の床清掃に脱臭・除菌・吸水効果のある資材を散布するなど、衛生面の配慮を怠りません。また、一般的な酪農家ではほとんど行われていない、乾乳牛(注2)への朝夕2回の乳頭の殺菌による乳房炎の予防も実施しています。こうして生産された衛生的で高品質な生乳は、関東生乳販売農業協同組合連合会が実施する乳質共励会で、2020年に約1,900戸の酪農家の中で14位という好成績を収め、関東地域の生乳の高品質化を牽引する存在としても、高い評価を受けています。
(注2)乾乳牛(かんにゅうぎゅう):出産に備え、搾乳をやめて40日~70日程度休ませる期間を乾乳期と呼び、この期間にあたる牛のこと。
良質なタンパク質や脂質、カルシウムなど、赤ちゃんが育つために必要な栄養素がたくさん含まれる牛乳。完全栄養食品とも言われる優れた食品を365日供給しているという誇りを胸に、江野澤さんは牛たちとともに歩みを進めてきました。
「生き物相手だから、計算どおりにいかないし、結果もすぐには出ない。そして、終わりはない。だからこそおもしろい」と目を輝かせる江野澤さんの座右の銘は「継続は力なり」。長年の努力が実を結んだとき、喜びとともに感じたのは、牛たち、家族、そして仲間への感謝の気持ちだったと言います。
高い評価を得た今も、同じ考え方を持つ仲間と切磋琢磨し、未来の畜産を担っていく若手への指導にも力を入れています。「努力は嘘をつかない」そう教える江野澤さんは、「後輩たちが結果を出して飛躍することがなによりも嬉しい」と期待に胸を膨らませています。
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