更新日:2024年11月22日
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横森 松子氏
結婚を機に、23歳で韮崎市穂坂町に来た横森さん。25歳頃からご主人と一緒にぶどう栽培を始めて以来50年、良いぶどうをつくるためにできることを地道に継続してきました。その優れた技と実績が評価され、令和5年度山梨県果樹・野菜共進会において最優秀賞となる農林水産大臣賞を受賞。「素晴らしいぶどうをつくることが私の生きがいなんですよ」と柔和な笑顔を見せる横森さんに、ぶどう栽培に懸ける想いなどを伺いました。
横森さんが嫁いで来た頃の韮崎市穂坂町は、まだ養蚕が盛んに行われていました。それでも当時から、すでにぶどう(デラウェア)を植えている農家さんもいたと横森さんは振り返ります。「田んぼをするより、ぶどうをつくった方が収入が増えて生活が楽になるだろうと、一部の農家がぶどうを植えたのが穂坂のぶどう栽培の始まりだと聞いています。また養蚕も下火になってきたことも影響して多くの農家がぶどうに切り替えていきました」。土地の水はけが良くて、日照時間が長く、昼夜の寒暖差が大きいなど、ぶどうの栽培に適した環境に恵まれていたことから穂坂は徐々に産地として発展していきました。「デラウェアだけではどうしても作業時期が集中してしまうので、作業時期を分散するために他の品種も導入しようと考え、ピオーネの栽培を始めることにしたんです」と当時を懐かしく思い出す横森さん。
「うちがピオーネを始めた当時はまだ種がありました。だから私は種ありから、種なしに移行していく時期も経験しているんですよ」と横森さん。ぶどうの「種なし化」はデラウェアの果粒が密着して裂果するのを改善するために、植物ホルモンの一種「ジベレリン」で処理したところ種が無くなったことから、山梨県で研究が本格化し、昭和34年にデラウェアの種なし化の技術が確立しました。そして昭和50年代後半には巨峰の種なし栽培も始まり、種なし化の技術は広く普及していきました。「ジベレリンによる種なし化が実現したことで、ぶどうがとても食べやすくなり、人気がアップしていきました。とても画期的なこととして今でも当時のことは強く印象に残っています」と横森さん。このように、ぶどうの名産地・穂坂の黎明期から、ご主人と共にぶどうづくりに勤しんできた横森さんですが「本当の挑戦は60歳から始まったんです」と話を続けてくれました。
今から20年ほど前に、ご主人が体調を崩され農作業ができなくなり、ひとりで栽培を始めた横森さん。そこにはとてもひと言では語れないご苦労がありました。「お父さん(ご主人)が突然具合が悪くなって、途方に暮れました。剪定もお父さんがやっていた時は良かったけど、私がやり始めたらぶどうの棚が密になり過ぎて暗くなってしまったり…。これじゃダメだ…という壁に幾度となくぶつかりました。失敗した時はどうしてこうなってしまったのか自分なりに考えたり、農協の指導員の方に教えていただいたりして、試行錯誤を繰り返すうちに徐々に技術が身につき、なんとか今日までやって来た感じです。
【後編】では、農林水産大臣賞を受賞した「種なしピオーネ」の魅力と横森さんの技などについて紹介します。お楽しみに!
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