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ページID:29117更新日:2017年6月16日
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中世の調理器具(写真1) 写真1の土器は何だと思いますか。高さ約8cm、直径約32cmあります。真横から見ると、少し深めのお皿に見えますが、この土器の内側を見てください。(写真2) (写真2) 内側に二つの把手(とって)が付いています。内側に耳のように付いているので内耳土器(ないじどき)と呼んでいます。 これは中世から使用されるようになった鍋(なべ)です。遺跡トピックスNo.64西畑B遺跡でも少しこの土器について紹介していますが、この耳のところに縄やつるをかけ、つるして囲炉裏(いろり)で使用しました。内側に耳がついているのは、炎で縄、つるが燃えないようにするためです。下図のように使用していたと考えられますが、内耳土器の内面は芋汁などを煮た時にできる焦げた跡があまり見られず、どのようなものを煮ていたのか今後検討する必要があります。 (想像図) はるか昔、縄文時代から炉(ろ)を用いていた生活が、古墳時代からカマドの使用に変わり、そして再び囲炉裏として炉が復活したわけです。その背景は、食生活の変化、それによる調理法の変化、発展などいろいろ考えられます。 ひとつの鍋からでも、そうしたことが垣間見られます。 内耳土器は先に鉄製の鍋が存在していて、それを真似して土製の内耳鍋として登場しました。その理由としては鉄の生産が少なくその代わりに土製の鍋が作られたという説などがあります。 山梨県内では、内耳土器の出土例は中近世の遺跡から多くみられますが、鉄製の内耳鍋はまだ見つかっていません。今後発掘によって見つかる可能性があるのか、それとも土製のものしか存在しないことが山梨の特徴なのか、これからの研究課題のひとつです。 塩川遺跡の概要塩川遺跡は、塩川ダム建設に先立ち1989年から3年にわたり発掘調査を実施した遺跡です。調査区はA区、B区の二つに分かれ、A区では特に縄文時代前期、中期の土器群の資料が注目されます。 B区では縄文時代、古墳時代、平安時代の住居跡のほか、中世の五輪塔、近世の墓こう等が発見されました。 所在地:北杜市須玉町比志3870番地ほか(A地区)、北杜市須玉町小尾200番地ほか(B地区) 時代:縄文時代、古墳時代、平安時代、中世、近世 調査期間:1989年~1991年 報告書:山梨県埋蔵文化財センター調査報告書第70集 考古博物館で内耳土器が展示されています今回取り上げた塩川遺跡の内耳土器は普段お目にかけることができませんが、考古博物館では二本柳遺跡(にほんやなぎいせき)の内耳土器が常設展示されています。こちらの土器は底が深いです。内耳土器は時代が新しくなるにつれて底がだんだん浅くなっていきます。鍋というよりは焙烙(ほうろく)として豆を煎(い)ったりする際に使用したと思われます。内耳土器の深い底のものは徐々に別の型の鍋に取って代わられ消えていったのでしょうか。
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