トップ > 組織案内 > 県教育委員会の組織(課室等) > 遺跡トピックスNo.0426甲府城下町遺跡?江戸時代のゴミ穴から?
ページID:68716更新日:2017年6月13日
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甲府城下町の遺跡 |
甲府城下町遺跡は、甲府市街西側を南北に通る相川が形成した相川扇状地に構築された近世城下町です。調査地点は、甲府城西門にあたる柳御門(現在の山梨県庁西門付近)の北西にあり、江戸時代には、武家屋敷地に該当する場所です。
【写真1】調査区から甲府駅を望む(西から) 調査地点について、1689(元禄二)年~1704(宝永元)年に描かれた『甲府城内屋敷図』という絵図には「御城代岡野伊豆守御屋敷」の記載があり、甲府城代の岡野伊豆守という人物がこの土地に住んでいたことがわかっています。このころの甲府は、甲府徳川家(甲府家)と呼ばれた徳川綱重(つなしげ)・綱豊(つなとよ)父子が城主となった時代です。 また、柳沢吉保(やなぎさわよしやす)の公用日記である『楽只堂年録』にある「甲府城下絵図」には、「柳沢権太夫(やなぎさわごんだゆう)」の名がみえます。この人物は、柳沢吉保が甲府城主となった時代の家老で、甲府に居住しなかった吉保に代わって甲斐国の政務を執り仕切った人物です。 発掘調査では、甲府家期のゴミ穴や溝が発見されたほか、柳沢期の大型建物跡や井戸などがみつかっています。ここでは、甲府家期の時代に使われたゴミ穴に注目して、その遺物からみえる江戸時代の生活風景を考えます。 遺跡名:甲府城下町遺跡(駅前駐輪場地点) 所在地:甲府市丸の内一丁目1-11 時代:近世 報告書:『甲府城下町遺跡(駅前駐輪場地点)』山梨県埋蔵文化財センター調査報告書第305集2015.3 ゴミ穴の大きさと機能発見されたゴミ穴は、報告書に記載された遺構名称を「竪穴状遺構SX01」といいます。調査段階では、機能が明らかでなかったためです。調査を進めていくうちに、不用品(ゴミ)を集積する土坑(穴)であることがわかってきましたので、ここでは、「ゴミ穴」という表現を使っています。大きさは南北2.8m×東西1.8mの長方形で、深さは遺構確認面より約10cmです。容積としては0.5立方メートル程度しかありませんが、50点を超える陶磁器・土器・石製品・木製品・金属製品が出土しました。 【写真2】江戸時代のゴミ穴完掘状況 冒頭でも述べたように、この土地には甲府城代が住んでいたことがわかっています。この場所にどれくらいの人数が住んでいたかはわかりませんが、城代の居住スペースにしては、ゴミ穴の規模が小さいことが指摘できます。そのため、このゴミ穴は仮のゴミ置き場であり、広大な敷地のどこかに最終的なゴミの集積場が存在すると考えられます。 ゴミ穴から出土した生活用具ゴミ穴から出土した遺物は、そのほとんどが陶磁器碗やカワラケなどのうつわで、そのほかに若干、焙烙(ほうろく。土製の鍋)や砥石、火消し壺などの日用品が混じります。ゴミ穴から主体的に出土するうつわの中で、その多くを占めるのがカワラケです。カワラケは非日常の宴会などで儀礼的に用いられる土師質土器(はじしつどき)で、1度使われるごとに捨てられてしまいます。また、うつわを主体として、焙烙や火消し壺、焼塩壺などの台所用品が出土することや遺物の出土状況から、このゴミ穴から出土した遺物は、1階の宴会で使用、消費された道具のセットであることが推測されます。 【写真3】ゴミ穴から出土した遺物セット(左) 【写真4】出土したカワラケ(右) ゴミ穴からみえる風景これまでに実施されてきた甲府城下町遺跡の発掘調査において、甲府家期に該当する遺構とそれに伴う遺物はあまり多くありません。特に、甲府駅南口周辺の武家屋敷地に当たる地域では確認されていません。こうした地域から、ほぼ一時期と判断される遺物が出土したことは、約260年続き、進歩し続ける江戸時代の生活様式の一端がわかる資料となります。 【写真5】富士山が描かれた磁器碗(左) 【写真6】磁器碗底に描かれた「二重圏線」(右) 写真5は、ゴミ穴から出土した磁器碗です。器面には、日本の象徴「富士山」が描かれています。さらに、富士山が描かれた碗の底には、「圏線(けんせん)」と呼ばれる円が二重に描かれています(写真6)。この技法は、上質な磁器に施される染付技法です。この磁器碗は肥前(現在の佐賀県・長崎県)から流通したものですが、富士山の染付を選んで購入しています。わざわざ上質な磁器碗かつ富士山の絵を選び、それを儀礼の場で使用していた可能性があります。江戸時代の人々の富士山への思い入れと遊び心がこの磁器碗から伝わってきます。 【写真7】甲府城天守台から望む富士山
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