ページID:5760更新日:2021年10月31日
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昭和戦後、伐木の様子 見本林に指定されているヒノキ林 御下賜110周年を迎える謝恩碑
明治の末、本県では大水害が相次ぎ、このため県民は、大変苦しい生活を余儀なくされていました。
この様子を知った明治天皇は、明治44年3月11日、県下の御料地のうち16万4千ha(台帳面積約298,200町歩)を県民の暮らしの復興のため、本県に御下賜されました。
これが県有林の基となっており、一般には恩賜林と呼ばれています。
県土の約3分の1を占める恩賜林は、先人達のたゆまぬ努力により守り育てられ、県土の保全や、林産物の供給を通じて、本県の発展に大きく貢献してきました。さらに近年では、森林の有する安定した水資源の確保や人々に潤いと安らぎを与える効果など様々な機能も重視されています。
また、令和3年3月11日に御下賜110周年を迎えたことから、これまで恩賜林の果たしてきた役割や歴史を再認識するとともに、多様な公益的機能を有する森林を県民全体で守り育て、次の世代に引き継ぐための契機となるよう、「恩賜林御下賜110周年記念事業」を実施しました。
舞鶴城公園内に立つ謝恩碑は、恩賜林御下賜への感謝の念を表すため建設されたものです。謝恩碑西側には、謝恩碑建設時の山脇春樹知事による碑文があり、この現代語訳が謝恩碑の概要とあわせて、謝恩碑東側にパネルにより表示されています。
このパネルは御下賜の経緯や謝恩碑の構造等をよく表しているため、ご紹介します。
この謝恩碑は、明治44年3月11日、山梨県内にあった皇室の山林を明治天皇から本県にいただいたことを記念して建てられたものです。
碑の建設は、明治神宮造営局参与工学博士伊東忠太氏および同局技師大江新太郎氏の設計により、大正6年12月から同9年12月まで3か年、当時の金額で99,528円を費やして行われました。なお、碑の材料として使われている花崗岩は、東山梨郡神金村(現塩山市)の旧皇室の山林から切り出したものです。
碑の高さ約18.2メートルで、碑身はオベリスクと呼ばれる古代エジプトの記念碑を、また、碑台はバイロンと呼ばれるこれも古代エジプトの神殿の入口に設けられた搭状の門を形どっているものです。
総高…約30.3m
碑身…下部約2.1m、上部約1.8mと一辺の長さが上部ほど細くなるように十個の碑石を積み(約15.8m)、その上に高さ約2.4mの方維体(ピラミッド型)をのせる。
碑台…一辺約9.4m、高さ約7.4m
台座…一辺約16.1m、高さ約1.1mの本台座とその下部に副台座を設ける。
敷地…東西約24.5m、南北約33.6mで面積は約823平方m。
これから後の文は謝恩碑西面に書かれている碑文を現代的に表現したものです。
明治四十四年三月十一日、明治天皇陛下は度重なる水害に悩んでいた山梨県の復興のために、陛下の管轄にあった御料地を県の財産として与えてくださり、以後、山林をよく手入れして国土を守るようにとおおせになった。陛下のこの厚くありがたい御心に県民はこぞって感激し、県議会ではさっそくこれを恩賜県有財産と名づけて陛下の御心に添うように努め、県もまた新しく恩賜県有財産管理課を設置して積極的に区画の管理に当たるようにした。さらに翌年には、管理に必要な規則を公布して、境界を調査し面積を明らかにした。次いで植林や伐採に関する大綱を定め、森林が県内の至るところに競うように繁ることを期待した。こうした県の施策に基づいてどの郡や村でも同じように森林を愛護しなければならないということを知り、また度重なった水害の悲惨さを思い起こしては、おそれないものはなかった。そういうわけで陛下の御心をありがたく思い、感激することしきりであった。
考えてみると、本県の地形はまわりには重なり連なった高い山々がけわしくそびえ、地質の弱いところが多い。それ故、激しい雨がいく日も降ると、がけがすぐにくずれ落ち、土砂が平地に流れ込んで、長年にわたって大きな被害を受けた。特に甲府の付近一帯は高い山に囲まれて多くの川が集まっている地形であるから、その被害は甚だしかった。これより先の明治四十年八月の水害のときには、濁流が山や丘を切りくずし、見渡すかぎりの村々は勢い盛んな泥水にのまれ、人や家畜がたくさんおぼれ死に、田畑は河原となってしまった。このことは、陛下のお耳に達し、陛下は特別のおぼしめしをもって近くにおつかえする者を本県に派遣して実状を調査するとともに、慰問に御心を配られた。続いて四十三年八月にもまた水害があり、このときは前よりやや小規模ではあったが、四十年の水害のときの被害もまだ復旧していなかったため、地力はやせ衰えていて、人々は一段と心配の色を濃くしたのであった。
このように、しばしば災害を受ける原因といえば、本県の地形はその面積の八割を山林が占めているにもかかわらず、無計画に木を切っていたため、良材が残らないばかりか、枯れ野を焼く火が低い山や谷にまで及んで緑はますます薄くなるばかりであり、とうとう長雨が山をくずしたり、濁流が堤防を切り崩したりして災害を起こすようになってしまったのである。
今、われわれ県民は無計画に木を切り災害をこうむった当時のことを思い出すとき、陛下がそのことを戒め県土を守ることを諭されたありがたい御心に報いようと発奮し、謝恩のための記念の事業をしないでいられようか。ここに県議会の議決を受けて舞鶴城址に良い場所を選び、ここに謝恩の碑を建てるため碑石を東山梨郡神金村(現甲州市塩山)から見つけることに成功した。この地はもともと御料地の一画であった。こうして予定の地に碑を建て、陛下の御心に感謝する碑文を記して県民の心に永遠に伝えようとするものである。私、春樹(山梨県知事・山脇春樹)は、かたじけなくも本県知事に着任し、これを実現し得たことは誠に感激にたえないものである。
したがって、事の大略を右のように記して最後に次のような銘文を掲げる次第である。
山梨県は高い山々や高原を持つ地形でありながら、その連峰は緑が少なく、木こりや草刈りの人々が山林を荒らしている。
一度は長雨が降ると山からの濁流が四方に押し出し、家々は土砂流に流され、田畑は水の深い所と化してしまう。
この時に明治天皇陛下のありがたい御心により、本県内にある御料地をわが県に与えられた。すべての県民は感激して陛下の御心に報いるために、将来、美しい森林が繁るようにと心から願う。
陛下の御心は甚だ深く、県民は永久に感激し、堅固で美しい石を碑とし、ここに県民すべての心を刻みつける。
大正八年三月
山梨県知事従四位勲三等・山脇春樹・撰文
県下の入会御料地が本県に御下賜されたことを末永く記念するため、県は明治45年3月に、明治天皇の御沙汰が伝達された3月11日を「恩賜林記念日」と定め、毎年式典を挙行して感謝の意を表すこととしました。
場所:舞鶴城公園謝恩碑前広場
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