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ページID:28499更新日:2016年2月1日
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北口本宮冨士浅間神社山梨県側には‘吉田口登山道’という、富士山頂に至る登山道がありますが、この‘吉田口登山道’の起点となるのが、北口本宮冨士浅間神社です。 北口本宮冨士浅間神社の本殿
北口本宮冨士浅間神社とは?‘浅間神社’の前から‘諏訪神社’はあった北口本宮冨士浅間神社の東宮本殿は永禄4年(1561)、西宮本殿は文禄3年(1594)に、本殿は元和元年(1615)に建てられ、東宮と西宮の両本殿は国の重要文化財に指定されています。 この神社が鎮座する森は‘諏訪の森’と呼ばれ、かつてこのあたりは諏訪神社の神域でした。今でも北口本宮冨士浅間神社境内の一角には諏訪神社がひっそりと鎮座しています。 この地が記録の中に出てくるのは、文明12年(1480)で「富士山吉田取井立」つまり「富士山の麓の吉田に鳥居が建ちました」というのが最初で、この時にはまだ諏訪神社や浅間神社といった神社の名前は出てきませんが、この場所が、鳥居が建つような信仰拠点であったことは間違いありません。その後、明応3年(1494)の記録には「吉田取訪大明神」という記述が見られ、この時期には諏訪神社が鎮座していたと考えられます。 吉田の火祭り諏訪神社の明神みこし ところで、みなさんは‘吉田の火祭り’をご存知でしょうか。火を灯した松明が富士吉田の町を彩る、山梨県ではよく知られる祭りです。これはもともと諏訪神社の祭りで、今でも「御山みこし」(浅間神社のみこし)は「明神みこし」(諏訪神社のみこし)を追い抜いて先に進んではいけないことになっています。みこしの動きを見ても、「御山みこし」は常に「明神みこし」に合わせた動きをとり、諏訪神社主体の祭りだということを改めて感じることができます。 浅間神社の御山みこし 発掘調査をして・・・今回調査を行ったのは、本殿の裏側と東宮本殿の東側、それから吉田の火祭りの際に、神事が行われる‘御鞍石’のある場所です。 本殿周辺本殿の裏側は後世に改変されている部分が多く、また改変されていない場所についても、自然の土の積み重なりが見られるだけで、特に遺物や遺構は見られませんでした。 本殿裏側の調査風景(奥に見えるのが東宮本殿) 東宮本殿東側東宮本殿の裏側については、江戸時代の陶磁器類も出土しましたが、遺構などは見られませんでした。 掘り下げたトレンチの様子 さらに深く掘った土層の様子。土の自然な積み重なりが見られることから、土地自体が大きく改変されていない様子がわかります。 御鞍石(みくらいし)地点御鞍石 北口本宮冨士浅間神社が中心となって執り行なわれる‘吉田の火祭り’の中で、ここ御鞍石で行なわれる神事があります。祭りのクライマックス、境内にみこしが戻る直前に、暗闇の中行なわれる神事です。諏訪神社の御霊が入った明神みこしをこの御鞍石の上に置き、浅間神社の御霊が入った御山みこしはその傍らの地面にどっしりと腰を下ろした中、神事が始まります。 御鞍石の上に鎮座した明神みこし この御鞍石のあたりには、かつて諏訪神社が鎮座していたともいわれていることから、この周辺に建物などが存在したのか、またこの場所がどのくらい昔から神聖な場所として扱われてきたのかを知る目的で調査を行ないました。 集石が見つかりました(画面奥が御鞍石) 御鞍石がのるマウンドの縁辺部で見つかった石積 調査の結果、御鞍石の前方に集石が、また御鞍石がのるマウンドの縁辺部からは土留めのための石積が見つかりました。また、寛永通宝や永楽通宝などのお金や、陶磁器片は御鞍石の周辺に集中して見つかりました。建物跡などは見つかりませんでしたが、石を信仰対象として重要視されていることが改めて確認されました。またマウンド縁辺部から見つかった石積によって、この石がのるマウンドがある段階では、現在よりも一回り小さかったことがわかりました。 以上の成果から、この場所には常設の建物などはなく、臨時に神が降りる神籠(ひもろぎ)としての性格をもった場所であると言えます。 作業風景 今回の調査では、北口本宮冨士浅間神社の関係者の方々のご理解とご協力により、多くの成果を得ることができました。ありがとうございました。 今後、調査成果を詳しく分析していく中で、富士山にかかわる信仰についてさらに明らかにしていきたいと思っています。 |