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ページID:4377更新日:2017年5月30日
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韮崎市の遺跡0073苗敷山山頂遺跡-穂見神社0107大輪寺東遺跡-甘利氏館跡
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所在地:韮崎市旭町上条北割字宮下 時代:弥生・平安・中世 調査機関:山梨県埋蔵文化財センター 報告書:山梨県埋蔵文化財センター調査報告書第53集1990年3月 写真大輪寺東遺跡 「甲斐国志」によると、大輪寺は、今から約400年前の戦国時代末期、甘利氏の館跡に建てられたとあります。発掘調査した場所は、大輪寺から東へ約30mの地点です。つまり、大輪寺東遺跡は、甘利氏の居館跡の一部にあたることになります。甘利氏といえば、武田信玄に仕えた甘利虎泰(あまりとらやす)や昌忠(まさただ)らが知られています。 では、この遺跡から何が出土しているのでしょうか。 写真第1号A建物跡 写真第1号B建物跡 写真中国製陶磁器
上の写真は、第1号建物群跡で、たくさんの石が並んで検出された様子です。これは、建物の雨落ち施設や礎石(建物の基礎)です。これらの遺構から、12~14世紀の青磁片(中国製)や16世紀中頃の天目茶碗が出土しており、戦国時代(16世紀後半)の建物と考えられます。礎石を使った建物なので、武士などの有力な人が住んでいたと思われます。
写真第2号建物跡 写真第2号住居跡 写真内耳土器 第1号建物群北方160mに、第2号建物群跡と第2号住居跡を発掘しました。第2号住居跡からは、内耳土器や16世紀中頃の灰釉丸皿が出土しました。出土遺物から、これらの遺構も第1号建物群と同じ時期のものと考えられます。第2号建物群らは、掘立柱建物であり、一般の人の住居跡と考えられます。
これらのことから、第1号建物群は、旧来から想定されているとおり、武田信玄の家臣甘利虎泰や昌忠の館の建物の一部である可能性が高いと思われます。 |