トップ > 組織案内 > 県教育委員会の組織(課室等) > 埋蔵文化財センター_遺跡トピックスNo.0258中谷遺跡
ページID:33827更新日:2017年5月17日
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都留市の遺跡
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中谷遺跡都留市にある中谷遺跡は、昭和39年(1964)、46年(1971)、54年(1979)、平成5年(1993)~6年(1994)と4次(4回)の調査が行われています。1次と3次調査は中央自動車道建設に伴う発掘調査、2次調査は農道拡幅工事に伴う発掘調査、4次調査は山梨リニア実験線建設に伴う発掘調査として行われました。調査主体は、1次が遺跡調査団、2次と3次が都留市教育委員会、4次が山梨県教育委員会となっています。 遺跡からは、縄文時代中期~後期(約4,000~3,500年前)の住居跡21軒、土坑約60基、縄文時代中期~晩期(約4,000~2,500年前)の配石遺構、奈良時代(約1,200年前)の住居跡2軒などが発見されました。 遺物では、それまで資料の少なかった清水天王山式と呼ばれる縄文時代晩期の土器が大量に出土したほか、平成8年(1996)に山梨県の有形文化財に指定された耳飾を付けた土偶が出土しています。土偶は、両耳に滑車形(かっしゃがた)の耳飾が表現され、耳飾の使用を裏付ける貴重な資料となりました。 ☆所在地都留市小形山瀬木 ☆時代縄文時代中期末から後期の集落跡 ☆報告書山梨県埋蔵文化財センター調査報告書第116集1996年刊行 ☆調査機関山梨県教育委員会・山梨県埋蔵文化財センター 中谷遺跡の過去のトピックスはこちらです。 注口土器とその蓋〔写真・左〕中谷遺跡出土の注口土器と蓋 〔写真・右〕注口土器側面の突起 中谷遺跡からは、縄文時代後期の注口土器(ちゅうこうどき)が蓋(ふた)とともに出土しました。注口土器とは注ぎ口の付いた土器のことで、液体を入れて他の器などにつぐために使われた土器と考えられています。 〔写真・右〕注口土器の出土状況 〔写真・左〕注口土器の出土状況その2(蓋が反対についている状況がよくわかります) 土器の蓋は出土例が少なく、単体で出土することがほとんどなのですが、中谷遺跡では、注口土器に蓋をした状態で出土しました。さらに、土器の側面には蓋と土器をひもで固定するための突起が付いています。ただし、蓋が上下反対にされていたことから、お墓へのお供えものなど非日常的な目的で置かれていた(もしくは埋められていた)ものだと思われます。 千葉県の古作(こさく)貝塚で出土した蓋付きの土器の中には、貝輪が入れられていた例もあり、貴重品や特別な液体(お酒?)を貯蔵しておく器に蓋が付けられていたことが想定されます。 ただ、日常の生活、たとえば煮炊きをする場合にも蓋をした方が早くあたためることができます。それなのに、土器の蓋がわずかしか出土しないのはなぜでしょう? 当時、土器の蓋には木製のものが多く使われていたため、そのほとんどが土にかえってしまい、特別に作られた土製の蓋だけが出土するのではないかと考えられます。 今回紹介した注口土器は山梨県考古博物館の常設展示でご覧になることができます。
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