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ページID:47684更新日:2017年5月19日
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南アルプス市の遺跡
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大師東丹保遺跡(だいしひがしたんぼいせき)大師東丹保遺跡3.区・4.区の遠景(手前が3.区・奥が4.区) 大師東丹保遺跡は、甲府盆地西部、標高245~250mの甲府盆地の中では最も低い地域にあります。幾筋もの小河川により造れれた扇状地(せんじょうち)に位置しており、国道52号(甲西バイパス)と中部横断自動車道の建設に伴い、1993~1994(平成5~6)年にかけて1.区から4.区に分けて調査が行われました。この遺跡では、幅約40m、長さ400mの中で様々な遺構・遺物が発見されましたが、中でも、鎌倉時代(今から800年ほど前)の館とその周囲に水田が広がる村の一部が発掘されれたのが大きな特徴です。そして、低湿地にあることから木製品が良好な状態で発見され、漆塗りのお椀や下駄・草履・曲物(まげもの)などの日常生活品から、呪符(じゅふ)・人形(ひとがた)などのまじないの道具、建物の柱や部材に至るまで、洪水に埋もれた土砂の下から良好な状態でたくさん発見されました。 さらに、鎌倉時代の面の下にも、古墳時代・弥生時代の生活面が確認されています。
所在地:南アルプス市(旧甲西町)大師 時代:弥生時代・古墳時代・鎌倉時代 報告書:山梨県埋蔵文化財センター調査報告書第131・132・133集(1997年3月) 調査機関:山梨県埋蔵文化財センター 大師東丹保遺跡のこれまでのトピックスNo.0010・No.0108・No.0149・No.0200・No.0259・No.0287 大師東丹保古墳(だいしひがしたんぼこふん)大師東丹保古墳全景(西側から撮影) 今回紹介するのは、鎌倉時代のものではなく、4.区で発見された古墳です。東側の約半分は調査区の外にあり、全体は不明ですが、直径36mほどの円墳と考えられています。墳丘をたち割って断面を観察したところ、土を盛り上げたのではなく、扇状地の中の高い場所を利用して築かれていることがわかりました。また、墳丘の上半分ほどは洪水により削られ、すでになくなっていましたが、裾(すそ)の部分に葺石(ふきいし)がみられます。しかし、一部はやはり洪水によってえぐられ、葺石も崩れ落ちてなくなっていました。 葺石の間からは埴輪の破片が数多く出土しました。墳丘裾に立てられていたものが、洪水によりバラバラにこわれてしまったとみられ、復元すると3個体分の壺形の埴輪になりました。古墳の周辺からも土器が集中して見つかっており、これらの出土品から、古墳の造られた年代は古墳時代中期の5世紀前半頃、もう少し詳しく言えば5世紀第2四半期頃と考えられています。 甲府盆地西部では、同じ南アルプス市にある5世紀初めの物見塚古墳のように、台地上に築かれたものが知られていました。大師東丹保古墳は、それまでの「常識」を大きく変える発見でした。 古墳時代中期の甲府盆地(その2)古墳時代中期の甲府盆地については、以前にも紹介したことがあります(遺跡トピックスNo.0275)。 その特徴は、大型前方後円墳の時代であった前期から、帆立貝式古墳をはじめとする中・小規模な墳墓の時代への変化であり、その背景にはヤマト王権との関係に大きな変化が生じたことが考えられています。 甲府盆地における4世紀後半~6世紀初頭の墳墓の変遷 上の図を参考に、古墳時代中期の墓制の変遷について墳丘の大きさから見てみると、5世紀初頭、甲斐銚子塚古墳の後を継いだ中道地域の丸山塚古墳に続く甲斐国の首長墓が、八代地域の竜塚古墳(笛吹市)であるとすれば、それに続くのが大師東丹保古墳であり、この段階(5世紀第2四半期)では最も大きな規模をもつ古墳となります。同じ地域にある物見塚古墳は、「かたち」こそヤマト王権の最高権力者と同じ前方後円墳ですが、その規模は大きく規制を受けています。一方では、東山南遺跡(甲府市)や寺部村附第6遺跡(南アルプス市)など、西暦450年を相前後して須恵器を伴った低い墳丘を持つ円形(方形)周溝墓(遺跡トピックスNo.0247)が甲府盆地内に増えてきます。しかし、埋葬施設や副葬品は不明ですが、葺石や埴輪を供えた大師東丹保古墳は、これらの墳墓とは一線を画した墓ということができます。 大師東丹保古墳がなぜ、低湿地のこの場所に築かれたのか、その背景は未だに解明されていませんが、今後も新たな視点をもって古墳時代像を見直していく必要があります。
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