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ページID:53949更新日:2017年5月19日

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遺跡トピッククスNo.0374国指定史跡銚子塚古墳-壺形埴輪(つぼがたはにわ)-

曽根丘陵公園の遺跡

  • 0028国指定史跡銚子塚古墳-保存修理事業1-
  • 0040国指定史跡銚子塚古墳-保存修理事業2-
  • 0045国指定史跡銚子塚古墳-保存修理事業3-
  • 0096国指定史跡銚子塚古墳-立柱-
  • 0103国指定史跡銚子塚古墳-木製品-
  • 0110国指定史跡銚子塚古墳-火きりんぼう-
  • 0159国指定史跡銚子塚古墳-木-
  • 0318国指定史跡銚子塚古墳-鼉龍鏡-
  • 0335国指定史跡銚子塚古墳-立柱2-
  • 0374国指定史跡銚子塚古墳-壺形埴輪-
  • 0407国指定史跡銚子塚古墳-突出部と周濠区画帯-
  • 0391国指定史跡大丸山古墳-雪におおわれた前方後円墳-
  • 0388かんかん塚古墳-県内最古の馬具-

銚子塚古墳(ちょうしづかこふん)

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銚子塚古墳と丸山塚古墳

銚子塚古墳は、山梨県最大の前方後円墳として、となりにある丸山塚古墳とともに国史跡に指定されています。全長169メートルは、古墳時代前期後半(4世紀後半:今から約1,650年前)では東日本最大級の規模を誇り、現在も甲斐風土記の丘・曽根丘陵公園の中にその雄大な姿をたたえています。

1928(昭和3)年に発見された石室から、三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)をはじめとする数多くの副葬品が出土し、東京国立博物館に所蔵されていたことから、その存在は早くから知られていました。その後、史跡整備事業に伴い、これまで1983~1985(昭和58~60)年度、2001~2004(平成13~16)年度の2次にわたり発掘調査が行われています。中でも、第2次整備事業に伴う発掘調査では、後円部や周濠から前期古墳では数少ない木製品が多数発見され、注目を集めたのは記憶に新しいところです。

所在地:山梨県甲府市下曽根町

時代:古墳時代前期

報告書:山梨県埋蔵文化財センター調査報告書第15集1986(昭和61)年

第35集1988(昭和63)年

第195集2002(平成14)年

第228集2005(平成17)年

第239集2006(平成18)年

第253集2008(平成20)年

調査機関:山梨県埋蔵文化財センター

銚子塚古墳のこれまでのトピックスNo.0028No.0040No.0045No.0096No.0103No.0110No.0159No.0318No.0335

壺形埴輪について

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銚子塚古墳出土の壺形埴輪(山梨県指定文化財)

今回紹介する「壺形埴輪(つぼがたはにわ)」は、第1次整備事業に伴う調査で発見されたもので、後円部の墳丘(土を盛り上げたお墓の高まり)の途中の段になった部分から出土しました。

埴輪は、弥生時代後期(今から約1,800年前)に吉備(きび:岡山県)地方の墓に供えられた大きな土器から変化したもので、やがて畿内(きない:奈良県・京都府南部・大阪府・兵庫県南東部)に影響を与え、初期の前方後円(方)墳の墳丘に立てられるようになりました。

墳丘や埋葬施設を取り囲むように立てられていることから、聖域を区画するとともに、巨大な古墳を演出する装飾的な役割があったと考えられています。

埴輪には、単純な筒形(つつがた)をした円筒形埴輪、壺と器台(きだい)が組み合って口縁がラッパ状に開く朝顔形埴輪、壺が大型化した壺形埴輪などがありますが、一般的には円筒形埴輪と朝顔形埴輪を合わせて「円筒埴輪」と呼んでいます。その後、家や武器などを表現したものが出現し、古墳時代の後半になると、武人や巫女(みこ)などの人物埴輪が登場し、群馬県など北関東の古墳で多く見られます。しかし、これらは埴輪の中ではほんの一部で、埴輪のほとんどは、土管のような円筒埴輪といっても過言ではありません。

さて、銚子塚古墳からは、多くの円筒埴輪、壺形埴輪が出土していますが、この壺形埴輪は唯一、出土状況と全体の形がわかるもので、口縁部径51センチ、底部径10.4センチ、高さ67センチに復元されています。高さのある大きな二重の口縁部に三つ巴(みつどもえ)の透孔(すかしこう)をもつ特徴的なもので、全国的にも有名な壺形埴輪として知られています。球形に近い胴部にも透孔があり、底部には焼成前の段階で、はじめから孔(あな)があけられています。出土した壺形埴輪のすべてに透孔がある訳ではありませんが、銚子塚古墳の壺形埴輪の多くはこの形態であることが確認されています。

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後円部での埴輪の出土状況

壺形埴輪のゆくえ

ところで、改めて「壺形埴輪とは何か」といえば、焼成の前に底部に孔があけられた同じ規格の壺をたくさん使用して墳丘にめぐらすことが、まずもってあげられます。

銚子塚古墳では、発掘調査により前方部、後円部の各所から壺形埴輪が出土していることから、円筒埴輪とともに古墳の上にめぐらされていた姿が想像できます。

東日本の古墳において、円筒埴輪が使用される古墳時代前期後半以前には、畿内の影響のもとで底に孔をあけた壺をめぐらす風習が出現・定着していったと考えられています。その一方で、壺を墓にめぐらす伝統は東海(伊勢湾沿岸)地域がはじまりであるとし、壺形埴輪の系統の一つが東海地域にあるともいわれています。

県内では、4世紀に入ると、焼成前に底部に孔をあけた壺が、同じ甲府市の米倉山B遺跡(遺跡トピックスNo.0309)や榎田遺跡(遺跡トピックスNo.0140)など、弥生時代から続く方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)から出土しており、古墳時代前期の終わりまで見られます。

一方、古墳では、銚子塚古墳と笛吹市の岡・銚子塚古墳(全長92メートルの前方後円墳)で壺形埴輪が確認されていますが、同じ甲斐風土記の丘・曽根丘陵公園内にあり、これらより一段階古い前方後円墳と考えられる大丸山古墳(全長120メートル?)では、今のところ埴輪は見つかっていません。なお、公園の南にある前方後円墳の天神山古墳(全長132メートル)では、最近行われた発掘調査で底部に孔があけられた壺の破片が出土しており、築造年代を含め今後の動向が注目されます。

そして銚子塚古墳の後、壺形埴輪による配列を受け継いだのは、甲府盆地西部の低湿地に立地する南アルプス市の大師東丹保古墳です(遺跡トピックスNo.0357)。直径36mほどの円墳と考えられる墳丘の裾(すそ)を、壺形埴輪のみで取り巻いています。大師東丹保古墳の壺形埴輪は、銚子塚古墳のものと比べ口縁部の作り方が簡略化され、胴部も長くなっています。これは、古墳時代前期後半から中期初頭にかけての東日本出土の壺形埴輪で多く見られる形で、壺の「埴輪化」がさらに進んだものといえます。

その後、壺形埴輪は次第に円筒埴輪に集約されていき、5世紀前半のうちになくなっていったと考えられます。

参考文献

古屋紀之2007『古墳の成立と葬送祭祀』雄山閣

小林健二2013「甲府盆地から見たヤマト(2)-甲斐銚子塚古墳出土の壺形埴輪-」『研究紀要29』山梨県立考古博物館・山梨県埋蔵文化財センター

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