トップ > 組織案内 > 観光文化・スポーツ部 > 山梨県埋蔵文化財センター > 埋蔵文化財センター_遺跡トピックス一覧 > 遺跡トピックスNo.0327冨士御室浅間神社二合目本宮境内地遺跡-石碑が語る信仰の道-(富士河口湖町)
ページID:41420更新日:2016年2月25日
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富士河口湖町の遺跡0029滝沢遺跡-平安時代住居・土錘-0034滝沢遺跡-墨書土器-0056滝沢遺跡-桃の種-0334滝沢遺跡-叩き甕-0386滝沢遺跡-発掘調査速報-0395滝沢遺跡-転用硯-0095塚越遺跡-柄鏡形敷石住居跡-0177塚越遺跡-網代-0121富士山二合目行者堂跡-石列-0195炭焼遺跡-火打ち金-0248富士山と信仰の道0282冨士御室浅間神社里宮-片山社-0304富士山二合目行者堂跡-灯明皿-0327冨士御室浅間神社二合目本宮境内地遺跡-石碑が語る信仰の道- |
富士山は日本で一番高い山として親しまれていますが、雄大で美しいその姿は、古くから信仰の対象として人々の関心を集めてきました。 山梨県側の富士山二合目には、‘冨士御室浅間神社本宮’という、富士山中で最古の創建と伝わる神社が鎮座しています。この神社は平安時代のはじめころに創建されたと伝えられています。神社の社有地は富士河口湖町の飛び地となっています。 今回のトピックスでは、この神社社有地から発見された歴史の一コマについて紹介したいと思います。 冨士御室浅間神社本宮(富士山二合目)拝殿内での作業風景 ★☆★過去のトピックスもご覧下さい★☆★ 0121富士山二合目行者堂跡 0248富士山と信仰の道 0282冨士御室浅間神社里宮-片山社- 0304富士山二合目行者堂跡-灯明皿- 富士山信仰遺跡の調査についてはコチラ■□■ 山中に残された、‘昔の道’トピックス0248でも紹介しましたが、現在、山梨県側から登って、山頂に至る登山道としては「吉田口登山道」がありますが、この登山道は、明治40年の改良工事により付け替えられたものです。しかし、それ以前に使われていた道も、実は富士山中には多く残されているのです。 今回紹介するのは、冨士御室浅間神社二合目本宮から少し下った山林中に残されていた旧道です。 ここには、大きな岩が露頭している場所があり、この場所は江戸時代後期に描かれた『富士山明細図』という絵図にも描かれています。 この場所を調査したところ、下の写真の赤丸のところから、石碑が発見されました。長細いものが写っているのがわかるでしょうか? 写真中の赤丸の下にあるのが露頭する岩 露頭する岩の上には石碑が… 倒れた石碑の上には木が根を張っており、この石碑は全く忘れ去られた状態でした。時の移り変わりを感じます。 この碑の正面には「御中渡大願成就禅行」、右側面には「寛政八辰歳七月二日御師外川能登守」、左側面には「江戸麻布廣尾町先達包市郎兵衛」と記されています。高さ約90cm、幅約25cmの碑です。 この碑は、記された内容から、「寛政7年(1792)に、富士講のひとつである‘山包講(やまづつみこう)’の包市郎兵衛(つつみいちろうべえ)と御師である富士吉田の外川能登守(とがわのとのかみ)がともに、御中道巡り(五合目付近を横に一回りする修行)が無事成功しますように…」という願いを込めて建てられたものであることがわかります。 石碑が物語ること現在は山林であるこの場所に、この石碑が残されていたということは、少なくとも江戸時代の時点では、信仰の道として、この場所を人々が往来していたことを示しています。 今回の調査では、富士山五合目の山林中でも、中山道熊谷宿の茂木重蔵の名が記された、「登山三十三度大願成就」の石碑が発見されています。この傍らには旧道と考えられる凹みが残されていることから、ここもかつては信仰の道として使われていた時期があったと考えられます。 富士山中に、これら石碑を担ぎ上げた当時の人々の信仰心には驚かされるばかりです。 |