トップ > 組織案内 > 県教育委員会の組織(課室等) > 埋蔵文化財センター_遺跡トピックスNo.138「埋文センターで発掘調査した住居跡 その1」
ページID:4424更新日:2016年2月1日
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大月市の遺跡0013塩瀬下原遺跡-敷石住居-
0083塩瀬下原遺跡-土器・石器-
0227塩瀬下原遺跡-石皿-
0063大月遺跡-敷石住居-
0215大月遺跡-クリの炭化種子-
0314大月遺跡-石器-
0138原平遺跡-縄文時代早期末の住居-
0279御所遺跡-奈良・平安時代の竪穴住居跡- |
埋文センターで発掘調査した住居跡その1山梨県内の縄文時代の竪穴住居は、大きく3つに分けられています。 一番目は、柱の穴の並び方や住居の形・炉(煮炊きをした跡で、地面が赤く焼けています)がやや不安定な時期です。(早期~前期) 二番目は、柱の穴の並び方・住居内の必要なものを備え付けたものなどが定まってきます。終わり頃になると、敷石住居(しきいしじゅうきょ)が出てくる時期です。(中期) 三番目は、方形周石住居(ほうけいしゅうせきじゅうきょ:壁際に石を並べた方形の住居)の地域的な広がりがみられる時期です。(後期~晩期)それでは、各時期をみてみましょう。 (早期~前期)早期は、今から約9000年前から約6000年前まで、前期は今から約6000年前から約5000年前まで
(中期)今から約5000年前から約4000年前まで
(後期~晩期)後期は、今から約4000年前から約3000年前まで、晩期は今から約3000年前から約2400年前まで
埋文センターで発掘調査した住居跡は、第4回までを縄文時代、第5回を弥生時代、第6,7回を古墳時代、第8回を平安時代で行う予定。 住居跡のしょうかいは、発掘された住居の形、柱の本数や位置、そして炉の形や位置がどのように変わっていくのかをお知らせするものです。 縄文時代早期末から前期初頭の住居第1回目は、縄文時代早期末から前期初頭の住居をしょうかいします。 写真_原平遺跡5号住居跡です 原平遺跡(縄文時代早期末)今から約6000年前所在地:大月市大月町真木 時代:縄文時代早期末 報告書:山梨県埋蔵文化財センター調査報告書第160集_原平遺跡 調査機関:山梨県埋蔵文化財センター 発掘調査をした理由:中央自動車道拡幅工事 調査面積:約2,000平方メートル 調査期間:1998年度 標高:415m前後 この遺跡では、縄文時代早期末の住居跡が6軒調査されました。その中でも5号住居跡(写真の丸い住居跡)は、きれいな円形をした直径約4.2mの大きさです。そして、壁際に沿って大小合わせて14本の穴が巡っており、これらの穴の内、深さが40cm以上のものは5本あり、中心となる柱と考えられます。また、壁の立ち上がりは緩く、床は軟弱でした。床面までの深さは、60cm前後です。炉は住居のほぼ中央(写真の中央の赤い部分)にあり、90cm×75cmの範囲に焼けた土がみられ、不整形をした地床炉(じしょうろ)です。この炉は、深さ15cmまで熱を受けて赤く焼けていました。 写真_甲ッ原遺跡34号住居跡です 甲ツ原遺跡(縄文時代前期初頭)今から約6000年前所在地:北杜市大泉町(旧大泉村)西井出 時代:縄文時代前期初頭 報告書:山梨県埋蔵文化財センター調査報告書_第145集甲ッ原遺跡4 調査機関:山梨県埋蔵文化財センター 発掘調査をした理由:県道建設事業 調査面積:9,450平方メートル 調査期間:1989~1993年度・1995年度・1997年度 標高:800m前後 この遺跡では、縄文時代の住居跡114軒が発掘調査されました。その中の34号住居跡(写真の四角い住居跡)は、1991年度に調査が行われ、長方形をした住居跡が見つかりました。この住居の大きさは、長辺4.52m、短辺3.94mで、床面までの深さは12cm~15cmと浅い住居跡でした。柱の穴は4本と思われ、住居の角付近につくられていました。炉は、住居床面の中央からやや西側(写真中央のすぐ右上)につくられた、形の定まらない円形の地床炉です。焼けた土は、部分的に残っていました。 次の遺跡トピックスへ|遺跡トピックス一覧へ|一つ前の遺跡トピックスへ
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