トップ > 組織案内 > 県教育委員会の組織(課室等) > 埋蔵文化財センター_遺跡トピックスNo.0233関山遺跡
ページID:31210更新日:2017年3月8日
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上野原市の遺跡0003談合坂遺跡-埋甕-0072南大浜遺跡-弥生時代再葬墓-0098南大浜遺跡-陥し穴-0132長峰砦跡-鉄砲玉-0233関山遺跡-縄文時代中期の竪穴住居跡-0243長峰砦跡-石鏃-0256談合坂遺跡-縄文時代早期~前期の竪穴住居跡-0267尾咲原遺跡他-復元された縄文時代の家- |
河岸段丘上の集落跡JR上野原駅北側の、山中湖から流れ出る桂川によって形成された河岸段丘(かがんだんきゅう)の上に関山遺跡はありました。中央自動車道上野原インターチェンジの建設工事にともない1987(昭和62)年に発掘調査が行われ、縄文時代中期(約5000年前)の竪穴住居跡をはじめ、縄文時代早期(約9000年前)から晩期(約3000年前)にいたる土器や石器が発見されるなど、長期にわたってこの地に集落が営まれていたことが明らかになりました。 縄文時代中期(約5000年前)の竪穴住居跡〔写真1〕縄文時代中期の竪穴住居跡(直径約7メートル)。ほぼ正五角形に近い5つの柱の穴(柱 穴=ちゅうけつ)、土器を用いた調理の場である石囲炉(いしがこいろ)、貯蔵穴(ちょぞ うけつ、写真右上の柱穴と柱穴の間)、住居の入口部分には子どもの成長を願う風習の一種 と考えられている埋甕(うめがめ、写真下の2つの穴の間)が確認できるほか、周囲には溝 (壁溝=へきこう)が掘りめぐらされています。 〔写真2〕住居跡の発掘の様子(1)〔写真3〕住居跡の発掘の様子(2) 〔写真4〕住居の入口付近で出土した埋甕〔写真5〕住居内で出土した土器 (口径32センチ、高さ35センチ) 縄文土器文化圏の接点?出土した土器は、当時の中部山岳地方に特徴的なものが中心でしたが、その中に西関東地方に特徴的な土器が一部含まれていることに注目されます〔写真5〕。現在も神奈川県や東京都と境をなす上野原市が、当時も2つの文化圏の接点となっていたことを物語っています。 所在地山梨県上野原市 時代縄文時代 報告書山梨県埋蔵文化財センター調査報告書第36集1988(昭和63)年3月刊 山梨県埋蔵文化財センター調査報告書第40集1988(昭和63)年9月刊 調査機関山梨県教育委員会 |