トップ > 組織案内 > 県教育委員会の組織(課室等) > 遺跡トピックスNo.0475長峰砦?発掘された甲州街道?
ページID:83447更新日:2018年1月25日
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上野原市の遺跡0003談合坂遺跡-埋甕-
0072南大浜遺跡-弥生時代再葬墓-
0098南大浜遺跡-陥し穴-
0132長峰砦跡-鉄砲玉-
0233関山遺跡-縄文時代中期の竪穴住居跡-
0243長峰砦跡-石鏃-
0256談合坂遺跡-縄文時代早期~前期の竪穴住居跡-
0267尾咲原遺跡他-復元された縄文時代の家- |
はじめに今回は中央自動車道を走っていると、気が付かない遺跡の話です。 現在、甲州街道といえば、国道20号のことを指しますね。 長峰砦跡
長峰砦とは長峰砦跡は上野原市大椚地区に所在した中世(戦国時代)の砦(山城)であり、武田信玄の時代に上野原加藤丹後守が築いたとも言われていますが、明確なことは分かっていません。
長峰砦に関する過去のトピックスはこちら 遺跡トピックス0132長峰砦 遺跡トピックス0243長峰砦跡-とくに縄文時代の石鏃について
今回取り上げる旧甲州街道は、長峰砦が廃絶された後に造られたものです。
発掘された甲州街道 斜面地に造られた甲州街道
甲州街道とは江戸幕府の創設とともに、江戸から各地に向かう主要幹線道路「五街道」が整備されました。「甲州街道(当初は甲州海道)」もその一つで、江戸から出発して、郡内・国中を通過して、信州下諏訪で中山道と合流するまでの55里(約210km)に、45の宿駅が置かれていました(駅数には諸説あり)。
長峰砦の甲州街道長峰砦跡で発見された甲州街道は、現在の道と違い地形に沿っているので、蛇行や上り下りが激しいのが分かると思います。また、道幅も約1.2mと狭く「日陰の四寸道」と呼ばれた当時の表現が当てはまります。江戸時代の旅人の多くは、この道を徒歩で移動していました。ではなぜ、砦跡の空堀を埋めてまで、険しい尾根伝いのルートを選択したのでしょうか。 詳細は分かりませんが、山を下ると桂川やその支流があり、水害の影響を受けにくい尾根沿いを選択した可能性があります。上野原市域の甲州街道は多くが尾根筋を通っており、長峰砦跡で発掘された道はその典型と言えます。 赤い線が発掘された甲州街道、黄色が発掘調査範囲
「大椚村絵図」(山梨県埋蔵文化財センター調査報告書第168集序章掲載図を改変) 赤線で囲った箇所が長峰砦(城山と書かれている)、青線の箇所には現在も使われている野田尻の地名が確認できる
甲州街道から発掘された遺跡武田氏滅亡後、長峰砦はその役割を終えていたと考えられていますが、江戸時代になっても郭(くるわ)などはそのまま残っていました。郭からは寛永通寶や文久永寶などの銭貨や煙管(きせる)など、江戸時代の遺物も出土しています。眺めを楽しんだ旅人がいたのか、あるいは甲斐から相模へ、国境を越えていく際の手向け的な意味があったのかもしれません。
郭から発掘された銭貨・煙管 長峰砦から南側をのぞむ
結び残念ながら、長峰砦は中央自動車道によって大きく削られてしまい、当時の面影は残っていません。 現在の野田尻宿(上野原市) 恋塚の石畳(石畳の敷かれた甲州街道)(上野原市)
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