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ページID:3727更新日:2019年2月1日
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銚子塚古墳は、隣接する丸山塚古墳と一緒に、昭和5年(1930)に国指定史跡に指定されました。東日本最大級の前方後円墳で、考古博物館の西(徒歩3分)に位置します。銚子塚古墳はほかの銚子塚古墳と区別するため「甲斐銚子塚古墳」とも呼ばれています。
国指定史跡銚子塚古墳附丸山塚古墳については山梨県埋蔵文化財センターのホームページにも情報が掲載されております。
甲斐銚子塚古墳航空写真
銚子塚古墳附丸山塚古墳地図(GoogleMap)
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1928(昭和3)年石室発見
1930(昭和5)年国史跡に指定(隣接する丸山塚古墳とともに)
1966(昭和41)年墳丘・石室調査
1974(昭和49)年「風土記の丘」建設決定
1975(昭和50)年「都市公園・曽根丘陵公園」建設決定
1983(昭和58)~1988(昭和63)年史跡整備に伴う第1次調査
2001(平成13)~2005(平成17)年史跡整備に伴う第2次調査
甲斐銚子塚古墳が文献に初めて登場するのは『甲斐国志』(江戸時代編纂)です。また、1925(大正14)年の『史蹟名勝天然記念物調査報告』(山梨県)では、大型の前方後円墳であること、石室が存在すること、環濠(周溝)があること、そして多数の埴輪が散在していることなどが記されています。
地元では「伊勢塚」とも呼ばれ、伊勢講の信仰の対象として親しまれるとともに、桑畑や梅畑として開墾されていました。1928(昭和3)年に竪穴式石室が発見されたのは、伊勢講の幄舎(あくのや、あくしゃ…儀式や祭祀などの際に設ける仮屋)の建設工事がきっかけでした。古墳の規模に加え、石室の形態(小口積み)そして豊富な出土品から、畿内との結びつきの強い古墳として大いに注目されました。
代表的な出土品は三角縁神獣鏡です。戦後の全国的な古墳調査の広がりに伴い、甲斐銚子塚古墳出土の三角縁神獣車馬鏡は、備前車塚古墳(岡山市)や群馬県三本木所在の古墳(藤岡市)そして藤崎遺跡(福岡市)出土鏡と同型の鋳型をもとに作られていたことがわかりました。背面部の年号や全国的な広がりから、卑弥呼の鏡(『魏志』倭人伝、「銅鏡百枚」)と考えられ(※1)、邪馬台国畿内説の有力な根拠となりました。
一方、2001(平成13)年から始まった第2次調査は、大きな成果を収めました。その一つが、後円部北側で発見された「突出部(とっしゅつぶ)」です。これはテラス状の平坦部が半円形に張り出したもので、大小様々な石が敷き詰められていました。古墳における「祭りの場」と考えられ、東日本の前期古墳では初めての発見になります。
また、組み立て式の木製品(円盤状、蕨手形、棒形、写真下左は常設展示)は葬送儀礼の道具と考えられ、墳丘から周溝内へ投げ込まれたような状況で出土しました。後円部西側の墳丘裾から出土した「立柱(りっちゅう)」(写真下右、※2)と合わせ、より建造当時に近い姿がイメージできるようになりました。
組み合わせができる木製品 |
立柱(木柱)出土状況 |
日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の神話に代表されるように、甲斐銚子塚古墳はヤマト政権による武力制覇、つまり東国制覇の拠点の象徴として捉えられていました。しかし、近年の古墳時代に関する調査からは、各地の首長と連携した、ゆるやかな連合政権ヤマトの姿が浮かび上がってきます。ヤマト政権の象徴が前方後円墳であることには変わりはありませんが、甲斐銚子塚古墳を武力制覇の象徴ではなく、連合政権を支えた象徴として捉えることもできます。
用地買収や発掘調査を終えた甲斐銚子塚古墳に突出部が再現されるとともに、周溝を一回りして見学することができるようになりました。
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さらに2007年度には、整備の最終年度事業として立柱の復元が行われました。
復元された立柱(墳丘西側)
墳丘に登ると、真夏の暑い日でもさわやかな涼しい風が吹き抜け、甲府盆地を一望することができます。
小平沢古墳(前方後方墳、45m)→天神山古墳(前方後円墳、132m)→大丸山古墳(前方後円墳、120m)→甲斐銚子塚古墳・岡銚子塚古墳(前方後円墳、92m)→丸山塚古墳(円墳、72m)