トップ > 組織案内 > 県教育委員会の組織(課室等) > 遺跡トピックスNo.449十五所遺跡 > 遺跡トピックスNo.450伝煙硝蔵跡
ページID:75446更新日:2017年6月21日
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戦国時代、武田家の有力家臣の一人である穴山氏は身延町下山を拠点とし、現在の本国寺の辺りに館を構えました。その後、穴山氏滅亡とともに下山は城下町としての役割を終えたと考えられますが、下山は河内路と富士川舟運に欠かすことのできない宿場町として発展します。 また、下山は「下山大工」とよばれる大工たちの町でもあります。近世をとおして県内外の建造物の建設に携わり、明治になってからも旧睦沢学校(現:藤村記念館)を建設するなど、活躍をしています。 現在では、城下町や宿場町、大工町としての面影をわずかに残すばかりですが、ここにご紹介する伝・煙硝蔵跡(えんしょうぐらあと)も、その1つであると考えられています。
身延町下山の伝・煙硝蔵跡
所在地:南巨摩郡身延町下山 時代:中世~近世か 調査機関:山梨県埋蔵文化財センター
下山の伝・煙硝蔵跡
現在の富士川クラフトパークに入る橋の真下に、煙硝蔵跡と伝えられる遺構があります。煙硝蔵とは、火薬を保管する火薬庫のことです。 伝・煙硝蔵跡の測量図
周辺の測量調査と発掘調査により、丘の一部を掘削し、建物が乗ると考えられる土台が築かれていることが判明しました。 土台は上面が約12×23mの長方形で、高さは2~4mです。
現在の伝煙硝蔵跡
『山梨県歴史の道調査報告書第7集河内路・西郡路』(1986年、山梨県教育委員会発行)に掲載されている下山の絵図をみると、当該箇所に「えんしょう蔵」の文字と、建物の土台の表記があることなどから、この遺構が煙硝蔵ではないかと推測されています。
この遺構の上にかかる橋は、その名も「焔硝倉(えんしょうぐら)橋」です。ぜひ現地をご覧ください。
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この遺構の上にかかる橋は、その名も「焔硝倉(えんしょうぐら)橋」です。ぜひ現地をご覧ください。