トップ > 組織案内 > 観光文化・スポーツ部 > 山梨県埋蔵文化財センター > 遺跡トピックスNo.527二又第2遺跡
ページID:104674更新日:2022年6月6日
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中央市の遺跡
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二又第2遺跡二又第2遺跡は中央市(旧玉穂地区)成島に位置しています。周辺には田園風景が広がっており、調査区東側には神明川が流れています。二又第2遺跡は中世、約500年前の遺跡です。周辺地域は、中世では甲府の一蓮寺の寺領であったとされており、「成島・乙黒堰」という耕地用水路が整備されていたと考えられています。 二又第2遺跡は現代の耕作で上部が削られており、遺構の検出は困難な状態でありました。そのため、土壌の花粉分析を行った結果、イネ科の花粉が多く検出されました。このことより二又第2遺跡は、イネ科の植物を育てる田畑であった可能性があります。 昭和の水路?
写真1 現在の水路と発見した水路跡の位置関係
写真1は二又第2遺跡を上空から撮影した写真です。黒線の中が今回の発掘調査範囲です。赤で示した部分は現在も使用されている水路で、黄色で示した部分は今回発見した水路跡です。現在の水路は、古い水路を埋めた上に新設されており、元々曲がっていた水路がコンクリートの直線的な水路に置き換えられたことがわかります。 発掘した水路跡の中からは、株式会社明治より発売された、ネクタージュースの空き缶が一緒に出てきました(現在は販売されていません)。 これは普通でしたらゴミと思われがちですが、この水路が埋められた時期がわかる重要な資料です。少なくとも、プルタブが普及した時期以降に埋められた水路であることがわかります。 日本で初めて缶ジュースが普及したのは1954(昭和29)年のことです。最初の缶ジュースはプルタブを使用したものではなく、缶切りを使用して穴をあけて飲むタイプのものでした。プルタブ付きの缶が登場したのは1965(昭和40)年のこととなります。
写真2 発掘した水路跡
山梨県で水路のコンクリート化が始まったのは1956(昭和31)年のことです。水路は大小を問わずコンクリート化の対象となり、山梨県の農業用水路の97~98%までをコンクリート化することに成功します。水路のコンクリート化が進められた原因は、当時甲府盆地で猛威を振るっていた日本住血吸虫の中間宿主であるミヤイリガイが住みづらく、繁殖しづらい環境にするためでした。 日本住血吸虫とは?日本住血吸虫とは日本や中国、フィリピン、インドネシアなどアジアで主に猛威を振るっている寄生虫です。特効薬が開発されるまでに、少なく見積もっても世界で年間20万人がこの病気で命をなくしています。日本住血吸虫の感染に中間宿主としてミヤイリガイが関わっていることが特定されたのは、1914(大正3)年のことです。日本の研究者である宮入慶之助によって特定され、今まで不明であった感染ルートが判明し、日本住血吸虫の撲滅に大きな影響を与えました。山梨県で最後の感染者が出たのは1977(昭和52)年であり、流行収束宣言が出されたのは1996(平成8)年のことでした(菅又2010)。 水路のコンクリート化が始まったのが1956年であり、プルタブ付きのジュース缶が発売されたのが1965年です。プルタブ付きのジュース缶を水路跡から発見したことから、この水路跡は日本住血吸虫対策によるものである可能性は高いでしょう。 まとめこの水路跡が埋められたのは昭和のことなので、皆さんの想像する遺跡としては時代がだいぶ新しいと思います。もしかしたら、まだ記憶に残っている方もいらっしゃるかもしれません。しかし日本住血吸虫の一大流行地であった甲府盆地という土地で歴史を語る上では、無視することはできない遺構です。 普通だとゴミだと思ってしまうようなものでも遺跡の中から見つかると、時代を教えてくれる大切な資料になることがあります。今回のトピックスのように水路跡の中から見つけたジュース缶でも、よく調べてみれば、当時の歴史を紐解くきっかけとなることもあります。
参考文献 玉穂町1997『玉穂町誌』 菅又昌実他2010『日本における伝染病との闘いの歴史』みみずく舎
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