山梨県の歴史(明治12年(1879)~22年(1889))
明治12年(1879)
1月
- 町村会規則を定める
- 9郡役所一斉に開庁
- 国学者古屋周斎没(79)
3月
- 県会議員定員(30名)選挙行われる
- 「峡中新報」創刊
4月
- 県会開く。初代の県会議長に近藤喜則、同副議長に依田孝当選
5月
6月
11月
- 愛国社大阪大会へ本県代議員佐野広乃ら出席
- 県庁内に警察署をおき、従来の本分署を警察署と称す
- 全国調査のサンプルとして県下の人口調査を行う(甲斐国現在人別調べ)
この年各郡に勧業試験場を開く。コレラ流行し567名死亡。
明治13年(1880)
2月
- 野口英夫、小田切謙明ら初めて言論結社をつくり公愛社と称す
3月
4月
- 国会開設請願運動のため依田孝、田辺有栄、薬袋義一、佐野広乃ら総代となる
5月
6月
- 古屋専蔵、小田切謙明ら上京、太政官その他へ国会開設請願書を提出
- 明治天皇巡幸。
10月
- 県立甲府中学校開校
- 小田切謙明、大日本国会期成有志公会創立を斡旋し、幹事となる
11月
- 板垣退助、中島信行ら入峡、瑞泉寺、若松座などで懇親会を開く、会衆千余人
12月
- 内藤伝右衛門「甲府日日新聞」を主筆野口英夫に譲る
- 県下警察署を廃合し20警察署を5署とする
この年田口卯吉、末広重恭ら入峡して演説会。栗原信近ら商法会議所を開く
明治14年(1881)
1月
- 県会第1回半数改選、退任者を抽選で決めて執行する
- 八巻九万、県会議長に当選
- 「甲府日日新聞」を「山梨日日新聞」と改題
- 県会に常置委員を置く
- 山林原野官民有区分調査書を提出
8月
- 笛吹川氾濫
- 師範学校を山梨学校と改め師範。中学、医学科を置く
- 女子師範学校を山梨女学校と改め小学師範科、女子高等、普通学科を置く
10月
- 国会開設の詔勅
- 小田切謙明、幡野弘穀らと自由党結党式に参加
12月
明治15年(1882)
1月
3月
4月
6月
- 若尾逸平、野口英夫ら山梨保守党を結成
- 集会条例発布
7月
8月
- 東海農区4県連合繭生糸藍葉茶共進会を太田町公園で開く
9月
10月
- 内藤伝右衛門、「甲斐国志」を和本として初めて出版
- 山梨学校を徽典館と再び改める
明治16年(1883)
1月
2月
3月
8月
この年八田達也ら山梨養蚕協会を設立。物価しきりに下落
明治17年(1884)
1月
7月
9月
- 北山都留郡下の村々で借金党の不穏な動き目立つ
- 医師小野泉没(55)
10月
この年医学士長町耕平、県病院長に就任。4月1日から翌年3月31日に至る間をもって会計年度を定める。
明治18年(1885)
1月
4月
6月
8月
甲府某製糸工場にストライキ起こる。
10月
- 東山梨郡役所落成
- 仏教徒ら六和会を組織してキリスト教に対抗
- 医師広瀬元周没(53)
この年徽典館再建。甲州街道甲府以東を国道第15号線に編入。
明治19年(1886)
2月
4月
- 森本保太郎ら「甲陽新開」創刊
- 山梨女学校を徽典館に合併
5月
6月
- 甲府雨宮製糸工場にストライキ起こる
- 県巡査教習所開設
7月
- 県令を知事と改める。県令藤村紫朗、山梨県知事となる
12月
明治20年(1887)
2月
3月
- 身延に大火、150戸を全焼
- 知事藤村紫朗愛媛県に転じ、山崎直胤県知事となる
10月
11月
12月
明治21年(1888)
2月
- 若神子村に大火、120戸を全焼
- 乙黒直方ら「峡中日報」を創刊。
3月
- 富士川漁業取締法発布
- 中巨摩ほか3郡38ヵ村連合村会を竜王村に開き、治水費特別賦課法を審議
4月
5月
7月
《磐梯山噴火、死者461人(15日)》
9月
12月
明治22年(1889)
1月
2月
《大日本帝国憲法発布(11日)》
3月
4月
7月
- 女子師範生徒ら初めて関西方面へ修学族行
- 甲府に市制を布き、町村に町村制を施行
- 第1回市会議員選挙施行
- 甲府郵便局1番局に指定、小包郵便取扱い開始
8月
- 若尾逸平、甲府市長に当選
- 甲武鉄道、新宿-八王子間開通
11月