トップ > 組織案内 > 観光文化・スポーツ部 > 山梨県埋蔵文化財センター > 山梨の遺跡発掘展2021デジタルミュージアム > 山梨の遺跡発掘展2021デジタルミュージアム史跡武田氏館跡西曲輪北馬出
ページID:98929更新日:2021年3月26日
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所在地:甲府市古府中町
事業名:史跡内容確認調査
調査期間:令和2年4月10日~12月25日
調査面積:約100㎡
時代:中世・近世
調査主体:甲府市教育委員会
永正16(1519)年、武田信虎は石和の川田館から三方を山に囲まれた天然の要害を形成していた相川扇状地扇頂部の躑躅が崎に館を移します。以降、晴信(信玄)・勝頼にわたって政治がおこなわれ、名実とともに戦国大名武田氏の本拠でした。館の周囲には家臣や国衆を集住させ、新たな甲斐府中(甲府)を築きました。
天正9(1581)年、勝頼が新府城(韮崎市)を築き一時廃墟となりますが、武田氏滅亡後から甲府城が築城されるまでの間、甲斐国統治の中心として再利用されました。
武田氏館跡は、中世城館跡としての特色を十分残すとともに、武田氏の城館に特徴的な虎口構造、武田期と織豊期の遺構が複合した遺跡、居館と城下町と詰城がセットをなしていることに特徴があります。
史跡武田氏館跡 |
史跡要害山上空から見た史跡武田氏館跡 |
史跡武田氏館跡の曲輪配置 |
史跡武田氏館跡の曲輪配置二町四方の方形単郭の主郭を中心に付属の曲輪群が取り巻いています。現在、主郭は神社境内地となっていますが、堀と土塁、虎口と土橋は良好に保たれ、戦国時代の形態を今に残しています。 武田家当主が晴信に代わり、天文年間の二度の火災を経て徐々に武田氏館の整備は進み、天文20年(1551)には西曲輪が新造されます。西曲輪の北には味噌曲輪、主郭北側には稲荷曲輪、無名の曲輪が連続し、主郭北虎口を出た場所には大井夫人の隠居所と伝わる御隠居曲輪が設けられました。 織豊期には、南西側に梅翁曲輪が増設され、大手についても堀と土塁で区画し大手外曲輪が構築されました。主郭北西隅には天守台が築かれ、織豊系大名によって居館としてだけでなく、城郭化が進みました。 |
史跡武田氏館跡北郭全域ゾーン |
味噌曲輪武田氏館北側は大小の曲輪群(味噌曲輪・稲荷曲輪・無名の曲輪・御隠居曲輪)が取り巻く重厚な構えを有し、武田家領国拡大に伴い館の拡充が進んだことを如実に表しています。調査している西曲輪北馬出は、味噌曲輪内にあります。「味噌郭(曲輪)」以外に「蔵屋布」、「味噌蔵」と注記された絵図もあり、貯蔵施設を有した曲輪の可能性があります。過去の調査では、柱穴列・建物縁石・石組水路・井戸・溝など多数の遺構が見つかっています。 |
西曲輪北馬出全景写真 |
西曲輪北馬出西曲輪北馬出は、西曲輪北枡形虎口の付属施設です。虎口の土橋を渡り味噌曲輪に抜けると、その正面にあり西曲輪の北側出入口を防御していました。調査は、馬出の構造・規模を確認する史跡整備の資料収集のために実施しています。 馬出最終期の石塁が良好に残っており、武田氏館跡大手石塁と同様に角馬出の平面形態であったと思われます。角馬出の構築時期は少なくとも2時期あり、改修された痕跡も確認しました。角馬出より古い段階では石積や堀跡を検出しており、馬出が複数回にわたり形態や規模を変えて現在まで残ったことが判明しました。 |
西曲輪調査区図面 詳細はこちら西曲輪調査区図面(PDF:462KB) |
西曲輪北馬出石積検出状況1 |
西曲輪北馬出石積検出状況2 |
角馬出発掘調査以前は、西曲輪北虎口を遮る「L」字状の土塁が存在し、古絵図に記される角馬出と想定されていました。発掘調査の結果、現状残っている土塁の内側から自然石野面積の石塁が見つかりました。検出した石塁の形状は現状と同様、「L」字形でしたが、部分的に石積が残存しており、西側は後世の開発で消滅した可能性があります。古絵図に描かれているとおり、本来は西曲輪北土橋を囲むように「コ」の字形であったと思われます。 角馬出の変遷最終期の角馬出の規模は、東西約33m、南北約10mあり、東端部南側において門の礎石を1基検出しました。また、大手石塁で確認している階段遺構は検出できず、馬出上の建物の痕跡は不明確です。 発掘調査によって、この角馬出築造より前に同様の角馬出が構築されていたことが判明しました。古い段階の角馬出の石積は、基本的には最終期の石積の内側で確認していますが、東側では最終期の石積より東側に延びていることが確認できました。また、2段階の石積構築時期の間に石積の改修を施している様相も掴めました。 |
西曲輪北馬出石積(南面の一部) |
西曲輪北馬出石積の複数時期検出状況 |
西曲輪北馬出古期検出状況 |
角馬出付属門跡の礎石 |
角馬出下層堀跡検出状況 |
角馬出以前角馬出より古い段階では石積や堀跡を検出しており、馬出が複数回にわたり形態や規模を変えて現在まで残ったことがわかりました。角馬出の前面では、一部ですが円弧を描く堀跡を確認しました。しかし、大部分は角馬出の下層に入り込んでおり、武田期の三日月堀となるかは確定できません。しかし、断片的でありますが土塁の版築(土を少しずつ固めて層状に盛り上げ、建物の基礎・壁などを築く技術)と思われる痕跡も確認しており、大手と同様に丸馬出が築かれていた可能性もあります。 |
常滑焼検出状況 |
出土遺物遺物は多岐にわたって出土しています。これらは、ほぼ角馬出の石積の裏栗石とともに破片で出土しており、廃棄されたものを混ぜたと思われます。角馬出築造以前の館跡でどのような生活用品が使用されていたか示す一端の物の可能性があります。 |
天目茶碗検出状況 |
まとめ発掘調査によって、馬出が複数回にわたり形態や規模を変えて現在まで残ったことが判明しました。そして、土塁の高まりに対して田畑などの開発行為をおこなわず残した先人たちの意思がありました。 今後、今までの調査成果と史資料等から西曲輪北馬出、味噌曲輪の性格について調査および検討を繰り返し、往時の姿を学ぶことができるよう整備工事の準備を進めていきます。 |
石臼(中世) |
常滑焼 甕(中世) |
香炉(中世) |
灯明皿(中世) |
燭台(中世) |
天目茶碗(中世) |
土師質土器(カワラケ) |