トップ > 組織案内 > 県教育委員会の組織(課室等) > 埋蔵文化財センター_遺跡トピックNo.0465地中に残る戦争の傷跡
ページID:80733更新日:2017年6月28日
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山梨市の遺跡
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山梨市の地下壕山梨市の地下壕の坑口 山梨県では、第2次世界大戦末期に軍事施設や軍需工場の疎開地となり、多くの戦争に関連して造られた施設があり、現在知られているだけで50か所を越える戦争遺跡が残っています。今回紹介する山梨市の万力公園の北側にある小山の斜面に残る2か所の兵器貯蔵庫の地下壕もその一つです。 この地下壕は、西関東連絡道路第2.期建設工事の影響で壊れる可能性があることからコンクリートを投入して埋められることとなり、その工事に先立ち、三次元レーザー計測による三次元データの作成と現況平面・横断面図等の作成により記録保存されました。 測量作業の様子 所在地:山梨市南 時代:太平洋戦争末期(1944年~1945年初め) 報告書:山梨県埋蔵文化財センター調査報告書第296集上コブケ遺跡2014年刊行 調査機関:山梨県埋蔵文化財センター この地下壕については、『山梨の戦争遺跡』(山梨県戦争遺跡ネットワーク2000山梨日々新聞社)の中で、太平洋戦争末期の1944(昭和19)年から1945年初めにかけて、「東京陸軍兵器補給廠山梨分廠」として掘削された兵器貯蔵庫で、56本の兵器貯蔵庫が掘削されたという記録があるとされ、高射砲などの砲弾・弾薬・ガソリン・軽油などが、終戦時まで保管されていたと言われています。また、この掘削には近郷の勤労奉仕の一般人約800人のほか、日川中学校(現日川高校)の生徒約300人、農蚕学校の生徒約150人、山梨高等女学校の生徒などが動員され、当時日川中学の生徒だった人の聞き取り調査によると、ツルハシやガジを使った手掘り作業で、一つの壕に10人ほどが割り振られ、1日30cm程度を掘り進み、掘削廃土はトロッコで坑内より排出していたようです。
1945年7月6日深夜11時23分から翌日1時45分まで行われた甲府空襲では、市街地の74%を焼失し、今日、焼失地域内で行われている各地点の発掘調査では、塩部遺跡(遺跡トピックスNo.0381)や甲府城跡の堀から発見された焼夷弾をはじめ、甲府城下町遺跡では現在の地表面から僅か20cm程の地中から空襲の焼土層が確認されています。 甲府城下町遺跡で発見された焼土層 戦争が終わってから72年がたち、身近に戦争を体験した世代が次第に減ってきている中で、戦争を伝えるものが「ひと」から「もの」へと確実に移ろうとしています。遺跡の発掘調査から発見される戦争資料も「もの」として地域の歴史をより明確にし、平和学習の物証・語り部としての役割をになう大切な資料となってきています。 七夕空襲とも呼ばれる甲府空襲の日を迎えるにあたり、私たちの足元に残る戦争遺跡を通して、戦争や平和の問題を身近な問題として考えてみてはいかがでしょうか。
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