トップ > 組織案内 > 県教育委員会の組織(課室等) > 埋蔵文化財センター_遺跡トピックスNo.0514 杣口金桜神社奥社地遺跡(山梨市)考古学から式内社を考える
ページID:95225更新日:2022年7月12日
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山梨市の遺跡
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杣口金桜神社(そまぐちかなざくらじんじゃ)とは山梨市の旧牧丘町杣口(そまぐち)地区には杣口金桜神社が鎮座しています。寺社記や金石文等には仁寿年間(851-853)に創建されたとされています。奥社地跡は高天原といわれる旧社地であり、東西約100m、南北約200mの範囲が遺跡となっています。 所在地:山梨県山梨市杣口地内 杣口金桜神社周辺地図(国土地理院発行1/25000) 神社と寺院2つの性格を持った遺跡杣口金桜神社奥社地跡では平成17、18年に発掘調査が実施され、20面以上のテラス(平坦面)や土留めの石積み、通路としての石段などが確認されました。これらのテラスはおもに東側部分と西側部分に大別され、それぞれの性格が異なっています。東側部分については中世から江戸時代にかけて大きな整備が2度行われた形跡がありました。また、拝殿や割拝殿(中央が吹き抜けの通路となっている拝殿の一種)の建物跡が発見されており、さらに現在も奥社殿が鎮座していることから神社域としての性格を持っていると言えます(神社関連の遺跡ではほかに韮崎市の苗敷山穂見神社の山頂遺跡があります)。一方、西側部分には12~13世紀の遺物を伴う須弥壇を備えた仏堂と思われる三棟の建物跡が確認されており、寺院域としての性格を持っていると考えられます。これらのことから、古代末~中世前期に寺院が盛衰して、神社のみが近世まで維持されたということが考えられます(神社は近世以降、杣口集落の北端に里宮として遷座しています)。 杣口金桜神社奥社地遺跡全体図 遺跡と「米沢寺」の関係性杣口金桜神社に深いかかわりのある寺院として、米沢寺が知られています。米沢寺は康和5年(1103)に勧進僧の寂円が写経を書くために滞在した山寺とされています(国指定重要文化財である、勝沼柏尾山中から出土した経筒にその記載があります)。
今回見てきたように杣口金桜神社は、寺社記にある仁寿年間(851-853)創建という記述はさておき、少なくとも中世には寺院とともに神社が存在していたことが発掘調査により確認されました。ほかの3つの金桜神社については杣口金桜神社より由緒が遡る神社もありますが、考古学的な調査はまだ進んでいません。将来、発掘調査が行われ、杣口金桜神社が式内社の金桜神社と証明される日が来るのかもしれません。
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