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ページID:27929更新日:2015年12月14日

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遺跡トピックスNo.0213鰍沢河岸跡〔富士川町〕

富士川町の遺跡

  • 0005鰍沢河岸跡-泥めんこ-
  • 0025鰍沢河岸跡-礎石建物跡・井戸-
  • 0027鰍沢河岸跡-石垣・粘土枠遺構-
  • 0030鰍沢河岸跡-口留番所跡-
  • 0035鰍沢河岸跡-道・区画-
  • 0047鰍沢河岸跡-胞衣壺-
  • 0048鰍沢河岸跡-磁器・泥めんこ-
  • 0068鰍沢河岸跡-文政の大火-
  • 0092鰍沢河岸跡-目薬瓶-
  • 0113鰍沢河岸跡-元禄一分判金-
  • 0117鰍沢河岸跡-文政の大火と磁器-
  • 0188鰍沢河岸跡-荷物置き場-
  • 0203鰍沢河岸跡-竹製の水道管-
  • 0208鰍沢河岸跡-陶器製湯たんぽ-
  • 0242鰍沢河岸跡-御蔵台-
  • 0270鰍沢河岸跡-うさぎ文様の茶碗-
  • 0351鰍沢河岸跡-お茶碗にみるものがたり-
  • 0359鰍沢河岸跡-統制番号製品-
  • 0015町屋口遺跡-水路・道路-
  • 0291町屋口遺跡-明治時代の磁器-
  • 0360町屋口遺跡-河岸お蔵道-
  • 0114青柳河岸跡-石垣-
  • 0158平野遺跡-焼失住居跡-
  • 0375鰍沢河岸跡-泥めんこ-

鰍沢河岸跡の概要

鰍沢河岸跡は、江戸時代に甲信地域の各地から集めた大量の年貢米を江戸へ運び出すために富士川沿いに開かれた、いわば川の港です。また塩をはじめとする様々なものを甲信地域に運び入れる役割をも果たしており、昭和はじめに身延線が甲府まで全線開通するまで大いに栄えた場所でした。発掘調査によって、そこで暮らす人々の日常生活の様子やその港を支えた米蔵、問屋や飲食店などが立ち並ぶ活気あふれる賑わいの風景が浮かび上がってきました。


◆所在地山梨県富士川町(旧鰍沢町)1374-5外

時代近世・近代

調査機関山梨県埋蔵文化財センター

報告書山梨県埋蔵文化財センター調査報告書

第148集1998年刊行

第224集2005年刊行

第238集2006年刊行

第245集2007年刊行

第254集2008年刊行

陶器製の容器

0213鰍沢河岸-貧乏徳利

【左側面】【正面】【裏面】

この容器は、「貧乏徳利(びんぼうとっくり)」と呼ばれ、江戸後期より明治・大正・昭和初期にかけて、酒屋の小売用として庶民に使用され、ガラスの一升瓶(いっしょうびん)が普及するまで長く使われました。
当時の酒屋は、徳利を貸し出して、それに客のほしい量の酒を詰める量り売りの販売をしていました。店からの貸し出し用なので客は次に買いに行くときにもその店に行きますので、酒屋としても売上の向上を見込めたわけです。このような用途から別名を「貸し徳利」、又は「通い徳利」とも呼ばれています。
徳利には酒屋の店名や銘柄なども書かれていたので、お客がそれを持って買い物にでかければ、お店の宣伝にもなりました。写真に見られるように鰍沢河岸跡で発見された徳利にも店名や番地とも考えられる「岩崎屋」、「酒店」、「六十九」という文字が見られます。
「貧乏徳利」という言葉は江戸の町で使われていましたが、なぜ貧乏と言っていたのかはわからないそうですが、一説にはお金持ちは大きな樽で酒を買いますが、お金のない貧乏な人は、徳利をぶら下げて酒屋へ買いにいったからとも言われています。
量り売りの買い物スタイルは、買い物をする度に容器や包装のゴミなどが出ないことから環境に優しいと最近見直されています。資源をむだなく使う江戸時代の精神を引き継いだエコライフを始めてみてはいかがでしょうか。

 

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