ページID:105880更新日:2022年9月15日
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・「戦争を知らない世代へ」は一般財団法人山梨県遺族会及び同女性部が、戦没者の妻たちが戦後を生き抜いた体験を綴った「過ぎし日に想いをよせて」(H14.10発行)と、戦争遺児が父母への想いを綴った「平和の尊さをかみしめて」(H23.8発行)の2冊を再版し、合冊したものです。
・戦争を知らない世代が多数を占めるようになった今、悲惨な戦争が20世紀前半にあったことの証として、次世代へ語り継ぎ、世界の恒久平和の実現を図ることが遺族たちに課せられた使命である、との考え方からこの冊子を作成する事業が企画されました。
・「戦争を知らない世代へ」は、県立図書館をはじめ、市町村の図書館へも寄贈されています。ご興味のある方は、冊子を手に取って御覧下さい。
昭和十一年主人と結婚し二男一女の子供三人に恵まれました。主人は自分が一人児で寂しかったから子供は多い方が良いと喜んで成長を楽しみに可愛がって居ました。
戦争中の事、物資は不足何でもかでもが配給切符で買うので苦しい時でした。勝迄の辛抱と耐えて来た十九年八月主人に召集令状が来て甲府四十九連隊に入隊し出征兵士として勇ましく送り出されました。
私達は横浜に住んで居たのですが学童疎開等で皆田舎へ移住しました。私達も甲府の母の家へ移り一緒に生活しました。
思いがけず、主人中支にて戦死の公報が二十年五月にはいりました。子供は小一を頭に幼く、何か収入が無くてはと戦争未亡人の職業訓練で洋裁を習いに通いました。
同年七月六日夜B29の甲府空襲で着のみ着の儘夢中で逃げて穴切小学校に一時避難しました。其の中には火傷や怪我人が大勢いて悲惨なものでした、でも私達家族は皆無事で安心しました。
翌日住居のあった処へ行ってみたが何一つ残って居らず茫然としてしまいました。仕方がなく豊富村木原の母の従兄弟の家の一室を借り世話になりました。配給のモロコシの粉やサツマ芋を代用食として家族分配給して貰い、空腹さえなければ良いと生きていく為に精一杯でした。
八月十五日大事な放送があるからとのおふれでラジオの前で待ちました。天皇陛下の敗戦を告げる知らせに、何がどうなったのかこれから先はどうなるのか流言飛語が飛び交い不安で一杯でした。
敗けた日本はどう変わるのか悪い噂でもちきり、其の秋主人の遺骨が帰って来て長禅寺で市の合同慰霊祭をしてもらいました。遺骨を受け取ったけど、家のお寺の遠光寺も全焼して居て仕方なく家族で埋葬しました。
豊富も一年居て玉穂の農家の養蚕室を借り移り住みました。物資がない時で衣類をほどいて洋服を作り直したり他のまれ物を塗って居ましたが、収入が不安定なので思い切って勤めに出ました。
何時も力になって頼りにして居た母も七十才で亡くなり淋しくなったけど、子供達も成長して皆高校を出て就職、それぞれ結婚をして孫も居て今は安定して幸せです。
子供達は他県で、私は一人で暮らして居ますが遺族会の通知や連絡等少しでもお役にたてればとお手伝いをしています。会員の方も老化で足腰が弱くなり春秋の護国神社の大祭にも行かれる人が少なくなって寂しく思います。
主人との生活は八年と短かかったけど今では主人の分まで長生きしてと頑張って居ます。
戦後五十数年を経た今日の平和な生活の中で、ともすれば忘れ勝ちになる戦争の悲劇、遺族の苦労の道を知る人も少なくなりました。
省みますと、私は昭和十三年六月、慌ただしい夫の出征を前にして、近親者だけの水盃を兼ねたささやかな結婚式を上げました。
直後、夫は満州へ、そして中支、続いて太平洋戦争と三度目の出征をいたしました。昭和十八年三月彼岸終日、品川駅より南方へ発って行ったのが最後となりました。
憲兵の制止するホームで、生後四ヶ月足らずの子供を私の背中から抱き降ろし、満足したのかデッキに立って何度も敬礼して去って行った姿が 今だに目に焼きついております。
その後、ラバウルに半年、最後にニューギニアへ渡ったとの便りが十九年一月の消印を最後に切れました。
そして終戦、二十二年春になって やっとニューギニアに於て「認定戦死」の報を受けました。最後の希望を断たれた私は 生後百日で別れ父を知らぬ子を背負って湯村田甫の中の鉄道路線をさ迷いました。
夕暮れせまり街々の灯がともるのを見て、背中の子供が「あっち、あっち」と足をばたつかせるので、はっと我に返った事が今
でも忘れられません、側を通り過ぎて行く汽笛の轟音と共に。それからは凡てを忘れて 唯夢中で実家の営業を手伝いました。
子供も無事成人し、はや六十歳近くなり年老いた母を案じて一日も早く上京する事を待っていてくれます。私も来年は九十歳、上京の意を決して近々移住することに致しました。
昭和四十五年六月二十日、夫の命日に図らずも一枚の案内のチラシを手にしました。「戦後二十五年経過して 今は敵味方なく五カ国合同の慰霊祭をしましょう」と言う呼びかけのものでした。
私は直にそれに応募して九月八日から十日間の旅に 全国十六名参加の中に入りました。元南方面師団参謀の杉山様、部下の矢嶋大尉等 心強いメンバーでした。ラエ、マダンウェワク、ポートモレスピー等を廻り、それぞれの地で慰霊を行い涙を流して歩きました。そして最後にウェワク展望台ウオーム岬に於て五カ国合同の慰霊祭を致しました。
その日は美しく晴れ渡った南の空の下、立派な慰霊碑が建てられ 落下傘が飛んだり壮観でした。現地人も多数参加、五カ国の従軍軍人、看護婦等、胸に勲章をつけた人達が次々に慰霊碑前に花輪を捧げお祈りをいたしました。
私たち日本人十六名も最後に同じように祈りを捧げました、あの日の光景だけは今も尚、目に残り忘れることは出来ません。
オーストラリアの若い家族連れが「ここへ来てよかったか? 子供はいるか?」と話かけてくれましたが国境を超えても人情は変わりないと感じ嬉しく思いました。
次の日、杉山元参謀達の案内で主人の生存が確認されていた最後の地点(ウオーム岬西方三Kの地点)へジープで訪れました。協力してくれた元の酋長たちに杉山様がお礼と共に贈物を差し上げ、主人の事について話してもらうことができました。
河岸に壕を掘っていたが艦砲射撃が激しくなってきたので、トラック一台に兵を乗せ四十人位で本隊がいるトムへ向かったまま消息が絶えたとの事でした。
そして酋長の息子(新酋長)たちが椰子の実を取って来て私たちに飲ませてくれました。「この道を中村さんの御主人達が行ったのですよ」と杉山様に言われ胸にせまり大きな声で泣きそうになりました。
二十七年も前のこと乍ら昨日のように思い出され、この道を行った彼らの長身が目に浮かび、もう一度だけ会えないだろうかと 唯涙にむせぶだけでした。
他人から見れば何の変哲もないジャングルの中の道ですが、私には忘れられない道です。そしてきれいな海岸の砂の上でささやかな慰霊を行い、このような美しい海で死んだならまだ救われるのにと涙また涙の旅でした。
私の子どもがニューギニアを訪れたのは、昭和五十九年十月十一日からの八日間でした。慰霊巡拝団四回目に参加させて頂きました。当時の記録には戦闘概況が克明に書かれております。
戦没者数五万三千名、遺骨還送概数三万一千八百柱と記してありました。戦争は無惨にも若い尊い命を木の葉のように散らしてしまったのです。
母と子がニューギニア慰霊巡拝団に参加して故人の戦没地を心に刻むことが出来たことは、何よりの夫への供養と考えております。
そして九十歳を迎えるこの年まで健康で過して参りました。陰にある大勢の方々の温情に心より感謝しております。特に、実家の常磐ホテルの亡き両親の恩恵と、姉弟の愛の絆に守られて日々暮らして参りましたこと心に銘じております。そして私自身もそれに応えるべく努力をしてきました。同じ悲しみを持つ母子の支えになる人生を歩ませて頂いたことに満足しております。
おわりに
最近、世界中が不穏な空気に包まれております。私たちが味わった戦後の悲劇が再び起きない世の中であることを希うと共に 遺族の方々のご健勝を心より祈りながら、忘れられない思い出の一端を書かせて頂きました。
昭和十八年の七月に召集令状が来ました。当時子供が長女三才、二女が六ヶ月でした。
まもなく甲府連隊に入隊しました。夏服が渡され南方だと上司に教えられ、一日二回も面会に参った日もありました。一人を背負い長女の手を引き歩いて行くのは大変でした。
二日目の夕方甲府駅より出発突然の出発でしたが、上司に教えられなんとか見送りをする事が出来ました。それから何日か過ぎて、海南島よりハガキが来ました。其の後は何の便りも無く残念でした。毎日が空襲で子供と三人、心細く暮して居りました。
二十年の七月、甲府の空襲でした。其の日は偶然実家の田植えの手伝いが始まり町の家を離れて居りました。その夜十時頃に南の方から焼夷弾が投下され次第に激しくなり、実家の姉と共に人家のない田んぼへ逃げるより仕方がありませんでした。火柱が一町も広がり、目の前には鉄板が落ちて来て怖い思いをしました。
夜が明け戻って見ると互いに交わす言葉もありません。お倉には沢山の焼夷弾が落ちたのですが、父が若かったので実家は助かりほっとしました。
すぐお隣から東全体が焼き払われておりまだ火が燻っていました。町の家が心配になり翌日妹と二人で見に行きました。途中、光
沢寺の庭には幾人かの死人が並べられておりました。私の家は全焼でした。両親がまだ元気で居りましたので子供達をお願いして、
洋裁の勉強を必死でしました。
月日が経つのは早いもので、子供が学校へ上がる年には家を建てることが出来ました。食糧難のため、洋裁へ行く合間にはお米や野菜作りをしました。初めての年は、お米が沢山取れ子供達と大喜びしました。
引き揚げが始まって居りましたので、子供達と『お父さんが早く帰って来るといいね。』靴の音がする度に今日か今日かと待っておりました。
ある日『十九年の九月十日戦死』の公報が入りました。そして二十一年七月の暑い日善光寺に遺骨を迎えに参りました。マッチ棒位の箱に「ニューギニア、ヤカチの砂」がほんの一ツマミ入っていただけでした。葬式も質素で申し訳なく墓に納めました。主人の給料も戦死の公報が入ると止まってしまい大変苦労しました。
現在は今の所に落ち着き、五十年祭の法要も宮司様親戚の皆様に来て頂いて無事済ませる事が出来ました。
最後になりましたが終戦後間もなく戦友の方々が光明寺に立派な石碑を建てて下さいました。そして必ず四月になると法要をして下さり、長い間に渡り本当に感謝しております。
私の夫は現役の海軍々人でしたので主として横須賀に住んで居りました。日支事変の頃は「危ないことはない」と言っていましたがアメリカと戦う様になった時「これは大変なことになる」と心配して居りました。
現役であれば当然戦地へ行くことも覚悟して居りましたが昭和十八年の春に潜水艦で出征することになりました。
出征の前夜「俺が帰らない様なことがあればお前も苦労するけれど国が何とか面倒を見てくれるだろう」と言われ、泣いてはいけないと思い必死に涙をこらえました。翌朝いつもの出勤のように格別の言葉もなく出かけて行きました。甲府に母がひとり暮らしをしていましたので四人の子供を連れてお世話になりました。
十八年の暮も押し迫った頃市役所から戦死の公報が届けられました。言い様のない悲しみで体がふるえました。お察し下さい。
一月になってから実家の近くに家を借りて近くの寺に墓地を求めて軽い(写真一枚だけの)骨箱を納めました。
戦争は日毎にきびしくなり物資の欠乏もひどくなり、日夜の別なく敵機の空襲に脅かされて夜もおちおち眠れない様な日が続きました。甲府も空襲に遭い街の七割が焼けたと言うことでしたが幸いに私共は難をのがれました。
二十年の八月十五日に天皇陛下のラジオ放送で日本が無条件降伏で戦争が終わりました。終戦後は食料不足が一層ひどくなり育ち盛りの子供達等を飢えさせてはならないとその思いばかりで農家の親戚を頼って三日にあけず買出しに行きました。
世相が少し落ち着いた頃遺族会が靖国会として発足し初代会長に窪田先生が就任なさいました。或る日先生が「今度東京で各県の会長と婦人部長の会議があるけれど山梨はまだ婦人部長が無いので一緒に行って呉れ」と言われまして初めて出席しました。
他の県ではもう相当に活動して成果を上げている様子を知り、二、三の友人と共に当時新紺屋地区に三十七名の該当者がおりましたので、各自の生活状態や国への要望等を書いて名簿を作り市の厚生課に届けました。
何回か本部の会議に出席するうちに本部の国会対策委員に任命されまして、それからは月に何回と言う程頻繁に上京を要請されました。
家で五分の時間も惜しい様な仕事(洋裁)をして居りましたので、生活にも差し支えると思い事情を話して降ろさせて頂きました。其後も遺族の生活向上のためと思い、色々の活動に参加して参りました。
二十八年から細々乍ら国家補償の道が開けまして生活がだんだん安定する様になりました。三十年程前に湯村に転居しましたので、仕事も遺族会の役も一切やめて気侭な一人暮らしをして居ります。近くに娘が二人居りますので、何彼と世話になり老いては子に従いあり余る時間を読書等で過して居ります。
今考えると、あの時は夫の召集と子供のお七夜を一緒に祝い、何が何やら唯々忙しく何も考える暇もなく夫は翌朝「北牛奥」の神社で別れの挨拶をして駅に行ってしまいました。
私は子供を背負い家に帰り後片付けをし、翌朝甲府の駅で待っていました。お城で面会との事で色々食べる物を持って待っていましたが皆同じ服装なので主人がなかなか見つからず困っていたら私の兄が見つけてくれすぐ私の所に来ましたが集合の時がせまっていたらしく、話もしてはいられず、食べる事に夢中ですぐに行ってしまいました。
主人とは其れ切りです。
はじめは「部隊名」「所属」も分からず、満州から手紙が来てやっとわかり慰問袋を送り手紙のやり取りが出来、お互に健康でいる事がわかり安心しました。
手紙によれば、満州に二年位は居たらしく、其の内に北支の方へ移動。約一年位で又満州へ戻って来たということ、其の時、牛奥の人にお会いして「君は地方に行くらしいが俺は、すぐ内地へ帰るので」と言い少ないけどと五百円餞別をあげたそうです。
主人達はこれから朝鮮の方へ行き内地へ帰れると思っていたらしいのですが、内地はB29がひっきりなしに来て心配でなりません。銃後としても大変です。
配給が来るのですが、組の人達と三富迄も炭を買いに行きました。慣れない坂道を「しょいこ」で二俵ずつ背負って来たので
す。戦後故に致し方無しと思いました。
頭上をB29がすごい音を立てる。女ばかりの生活でしたので防空壕など掘れずいさと言う時には、家の中は真っ暗にして外に身を隠し、お米は大切に少しずつ小分けしてすぐに持ち出せる様に考えていました。
思えば甲府が空襲でやられた時はB29が幾機も来たらしく、家の中にいても音のすごさに身が震え外に出て見たら(私の家は見晴らしが良い所なので)甲府の方がまるで火の玉か花火の様に北に南にと其の凄さに体が震え、背にいた子供の妙子が「お母さん震えて居るよ」と言い、子供心でも心配していました。
主人に其の事を知らせましたら驚いていました。主人からは、何処で写したか知りませんが写真が来たのです。その姿は今だに胸にこびりついて忘れません。
其の顔の淋しさ、主人にすぐ葉書を出したのです。「家の事は心配しないで体だけは大事にしてください」と。
私の出した葉書が着いたかどうかわかりませんが其の頃、朝鮮から済州島へ行く途中(魚雷)にやられ船もろとも木端微塵になって居たのです。
松の根を勝沼の中原山迄持って来た時、天皇陛下から終戦の知らせがあった事を人から聞き戦争が終わったことを知りました。
終戦になっても夫は帰らないので葉書を出したら、主人が戦死したとの知らせに唯々悔しさが胸を込み上げて来るばかりでした。どうせ終戦になるなら一ヶ月早くなってくれれば良いのにと。何と「幸」の遠い事でしょう。
私は最愛の一人娘を病気で亡くし、今は一人暮らし、頼りにしていた娘でしたから毎日涙の種はつきません。娘も主人が生きていたら死なずにいたでしょう。
「二十七」 コウフタチバナ シモオギハラ ツジミ エコドノ ゴフクンノセンシノオモムキ ツツシンデ アイトウノイヲヘウス」「ヤマナシケンチジ」 縦二十六センチ横十二センチの、この黒枠の紙一枚で私の人生の歯車はくるいました。
私は裏の畑で栗を落としていました。主人の母が受け取り、私をよんで「しっかりしろ国のため名誉の戦死だ、孫と三人で頑張って生きていこう」ボーとしている私になぐさめの言葉をかけてくれました。
そのうち静かに横になったので疲れたのだと思い、羽織をかけてあげながら見ると様子が変なのです。お医者さんに見ていただいたら母は重い脳出血でした。
私を力づけ自分はがまんして倒れ、その日のうちに主人の後を追って逝ってしまいました。六十五才でした。
私は二十五才、娘が三ヶ月で夫は甲府四十九隊に入隊、それから出征し中支にて戦死、父親の顔も知らない小さな娘と二人どうして生きて行ったら良いのか。「名誉の戦死」そんな言葉より明日からの生活です。
主人と母の葬儀を、なんとか親戚とご近所の皆様のおかげで無事にすませました。主人の四人の姉達が何かと力になってくれほんとうに嬉しく思いました。でも皆んな帰ってしまえば二人きり、身も心もボロボロです。
裏に少し行くと中央線の線路が有ります。暗くなるのをまって娘の手を引いて線路に向かいました。
毎日忙しく、ろくに遊んでやれなかったので、私と歩くのが本当に嬉しそうで小さな手でしっかりにぎりしめ、何も知らずに可愛い目をキラキラさせて私を信じてついてくる娘、思わず黙って小さい体を力いっぱいだきしめました。
その時電車が通りました。その音にまぎれて思い切り泣いて泣いて泣き切りました。バカな親、弱い親、自分が一番不幸の主人公の様に思いこんでいた。
それに主人と姑ご先祖さんは私が守らなければ誰が守る。そして一人娘をりっぱに育てなければ、それが私の運命なのだと思いました。
考えて見れば私の生い立ちもそんなに幸せな事ばかりではなかった。
実母は三人の娘達を大事にしてくれました。最初の父は潜水夫で海外で早く亡くなり、二度目の父は水晶屋でお妾さんに子供まで生ませた。
でも母は泣き事もいわず農家だったので家を守りながら姉と近所の仕立て物や髪結いをおぼえ、お嫁さんの髪までゆってやったのをおぼえています。
私は妹だけはちゃんと学校にいってもらいたく(母はだめだといったけど)東京のおやしきに働きに出ました。
眠くても、眠る時間もなく犬になりたいとほんとうに思いました。そこで十年がんばりました。それを思えばがんばれる。
暗いうちから暗くなるまで夢中で働いた。やみやもした。土方もした。祭りの店も出した。でも人に指をさされる様な事はしなかった。今は三人の孫、
三人の曾孫にかこまれ、ゲートボールをやり健康でおだやかな毎日を送っています。「自分をほめてやりたい、よく頑張ったね」と。
苛烈を極めた大戦争が終わりを告げて早五十五年、年月の流れは早く記念すべき日を迎えられる事は、誠に感慨無量のものがございます。
私は事業家の娘として産まれ、代々郵便局を経営する家の長男、学校の教諭の元に昭和十三年一月十九才で嫁ぎました。翌年に長男誕生、十七年には次男誕生と幸せな和やかな家庭の中に置かれ楽しい日々を送って居りました。
十八年十二月三十日、忘れも知れぬ餅つきの日でした。
突然として嵐が吹き荒れ赤い紙が舞込んで来ました。それは「一月四日入隊通告」の召集令状でした。
父母と主人の前に正座し「いよいよ」参りましたと毅然とした態度で申し上げました。父は一言「しっかりしなさいよ」と言っただけでした。
入隊の前夜主人は自分達の部屋に私と子供二人を呼んで言いました。「父母に孝養を尽くし大切にして来れ、頼んだぞ」、長男五才には「お前は三枝家のいずれは大黒柱になる人間しっかり家を守りお母さんを守りなさい」、次男二才はまだ何も分からぬが「健康で兄弟仲良く大きくなるんだよ」と三人を強く抱きしめて言いました。
最後に「どんな事があっても帰って来て下さい」と私が懇願すると主人は始めて涙を流し共に泣き、三日の夜を過ごしたのです。
明けて四日早朝、村長さん村民の方々の見送りを受け出征谷村の駅迄参りました。全校生徒がホームに整列、日の丸の小旗を振って見送って下さいました。
それが最後の別れになるとは・・・・・・。
戦友の話ではサイパン島に行く途中戦死とか、定かではありません。半信半疑待つ事二年、終戦後の二十年十二月十一日とうとう帰らぬ人となり白木の箱が届いたのです。
ひっそり葬儀を済ませ、主婦業、郵便局員として一生懸命精励し子育にも頑張りました。
二十二年父死亡後継局長問題が浮上し村長様村民の方々の推せん、陳情等により山梨県初の女性局長誕生と、時の新聞紙上を賑わしたものでした。
局長としての重責を負い、苦労は筆舌に尽し難く語り尽せぬ苦難の道をひたすら歩き続けて参りました。私ばかりではありません、喜びも苦しみも悲しみも皆同じです。
私は有りとあらゆる役職に付きボランティア活動に徹し今も尚続けて居ります。
苦労の甲斐ありて、表彰状感謝状数えきれない程頂戴しました。平成五年には春の叙勲の栄に浴し勲五等宝冠章を天皇陛下より賜り、宮中に参上有難く感無量でございました。
「新緑の玉座に近く叙勲の日」
「叙勲の日玉音胸に風香る」
現在は長男 中学校校長定年退職 次男 東桂郵便局局長、山梨県局長会会長
亡き夫の面影を偲びつつ今の幸せを噛みしめて二度と再び戦争のない平和な日本、世界も平和であります様に皆で一致協力し歩みましょう。
7 フィリピン慰霊友好親善訪問を終えて(田中 君子 南アルプス市)
16 今日 この日 この時を(宮下 初枝 南都留郡富士河口湖町)
明治四十三年に生まれた母は、約一世紀に渡った人生を生きぬきました。特に派手さはなく、ひたすら一歩一歩、一日一日を大事に一生懸命生きてきた母でした。
第二次世界大戦で夫を亡くした母は、二人の娘、妹と私を育てあげるため、山梨県の女性刑務官第一号として、甲府刑務所に就職しました。
また、母には二十歳年の離れた妹がいました。全てに秀でた妹に、医者の道を進むことができるよう、手となり足となり支え励ましその夢を実現させました。母は、妹のことを常に我がことのように、自慢していました。
金井家の柱となって懸命に生きぬき、二十五年間の甲府刑務所勤務を終えました。退職後の第二の人生では、私たちの子どもである内孫と、姉の子どもである外孫を限りなく慈しみ、子育てに大きな力をかしてくれました。時には厳しく、またある時には優しく励ましてくれました。そんな母の教えは、孫たち一人一人の心に深く残っていることでしょう。
母は、大きな病気もせず、入院することもなく九十五歳とは思えぬ元気さで、地区遺族会の役員や老人会の役員、無尽会にと忙しい日々を送っておりました。
ところが、一月二十四日の夕食後、主人と一緒にテレビを見ようと椅子に座って間もなく急変し、救命センターにはこばれました。母は、残された生命力で精一杯呼吸を続けましたが、三日目の平成十七年一月二十七日、孫たちが見守るなかでまるで眠るかのように、静かに呼吸がとまりました。
ある本の中に、次のような言葉があります。「人生を一本の樹木にたとえるなら、花が咲き豊かな実を結ぶのは、実は、壮年期ではなく最後に来る老いの時期だ。」というのです。
母の人生こそまさに、この言葉のように苦労を乗り越えた末の老齢期になり、やっと花が咲き、幸せの実を結んだと言えるのです。その一つは、三人の孫とその家族がここまで成長できたことです。
孫たちは、お婆ちゃんに大事にしてもらったことを忘れずに、何かにつけて、母を大事にしてくれました。今回の入院の時にも看護しながら「お婆ちゃんの思い出を話そう。」と言い合っているのを見て、涙がでる思いでした。孫たちにも多くのものを残し、また慕われた母は、きっと幸せだったと思います。
そして、さらにもう一つは、近所の多くの人たちから頼られ、慕われたことです。
「金井のおばあちゃんのように生きたい。目標にして頑張ってきたのに・・・」
「金井のあばあちゃんには、いろいろな相談にのってもらったのに・・・」といってくれています。
母は、人生の荒波に耐え、たゆまぬ努力を黙々と続けた末に、老いの時期になってはじめて、ゆったりと少しのことには動じない幸せを築きあげたと思います。
今、母は六十余年ぶりに最愛なる夫と天国での再会を果たしたことと思います。いったい何を語りあっているのでしょうか。
人間の記憶は何歳からあるのだろう、私は自信を持って三歳からだと答える。その度に胸深く眠っている戦争の哀しい思い出がよみがえって来る。
日本が敗戦の道を駆け下り始めた昭和十九年の春ラバウルで戦死した父の遺骨を受け取りに母と始めて電車に乗った。母は二十七歳、こども心に横須賀までの長い旅だった。見るもの聞くもの皆珍しく、そこから記憶が始まっている三歳だった。
帰りの電車の中で白木の箱を何度となく揺すっては母に叱られた。今思えば、それが「わたつみ」父の遺骨であったことなど知る由もない。
海兵だった父は死の一ヶ月前横須賀からの出撃だった。急な知らせで田舎から母が私の手を引き駆けつけた時には出港のあとだったという。
父にしてみれば愛する妻と幼い子を残してさぞ心残りであっただろう。やがて後を追うようにして戦死の知らせが来たという。
お腹に赤ちゃんがおり生きる望みを失った母が私たちを道連れにして死を決意した、というがよくぞ思いとどまってくれたと今は感謝している。
その母も九十三歳になり今は耳も遠く体も小さくなった。気丈だったあの若き日の面影はもうない。
父はみかんが大好物だったという。母は今でもその季節になるとみかんを絶やさず仏壇に供えている、その母の姿に夫婦愛を見た。
死んだ父だけが戦争の犠牲者ではない、残された家族の悲哀を幼い時から母を通してまざまざと見た。
国家の為に家族の為にと信じやがては訪れる平和を願い艦と共に生死の狭間をさまよいながらラバウルの海底深く沈んでいった父と二十七歳で靖国の妻となり、戦後六十六年ひたすら茨の道を地味に生き抜き九十三歳になった母の人生どっちが良かったのか私にはわからない。
生きたくても死ななければならなかった若者や父たちを戦争へと駆りだし戦争に負けたから仕方がないでは済まされない。国策の失敗ではないか。
その失敗から戦争のおそろしさを学び戦争を放棄して長い平和が続いている。先人達の尊い犠牲の上に出来た平和である。ひとそれぞれ見方はどうあれ私は父をねぎらいこそすれ無駄な死などとは決して思わない。
今まで遺族会の事はすべて母がやっておりその母が体を悪くし、出来なくなり遺児である私が参加することになりました。沖縄甲斐の塔の慰霊巡拝、友人二人での参加でもあり物見遊山的な部分もありました。
しかし一日目の旧海軍司令部壕跡の視察、横穴をコンクリートで固めた部屋、夜は暗く杖を持って歩かなければ死体を踏んでしまいます。想像もつきませんでした。
二日目は沖縄県護国神社に昇殿参拝しました。その後甲斐の塔慰霊祭。高々とそびえ立つ塔、その前に美しくならべられたたくさんの生花、ふりむけばまっさおな海そして海にもまけないほどの青い空、その中での国家斉唱、その後沖縄と山梨両県の知事を始めたくさんの方々からの戦没者への追悼の言葉、遺族へのねぎらいの言葉など心にしみありがたく聞かせていただきました。
また、長い間沖縄に住み御苦労なされた山梨県人会の方々がお忙しい中多数出席して下さいました。
全員で「ふるさと」を合唱し、二度と故郷の土を踏む事の出来なかった戦死者を思うとこの歌がこんなにも悲しく、さみしく聞こえた事はありませんでした。
一人一人が線香をたむけ、お水をかけてしっかりと合掌しました。その時ふと私は母の事を考えていました。
私の父は、兄が四歳、姉が二歳私が生まれて三ヶ月目の時戦地に赴きました。父の顔も、愛情も知らない私達三人を、一生懸命育ててくれた母、その想いがなぜか涙になり、見た事もない父の面影を想像していました。
今、母は九十七歳になり、病院で車イスの生活を送っています。
こんなすばらしいそして心に残る慰霊巡拝に母といっしょに来れたらと残念に思いました。すばらしい天気にめぐまれた三日間、私達遺族のために多大な時間をかけ慰霊巡拝を実施して下さった方々に深く感謝しています。
これからは高齢になった母を後悔しないよう大切に介護していきたいと心に誓いました。
戦後六十有余年、過ぎ去りし長き年月は「戦争」の二文字を人々の心の中から消え失せさせてしまったか、語る事もないこの頃を歯痒く思います。
人の命の尊さをも顧みない非常な戦争は二度とあってはならない、戦争を経験した者として世の中が平和であればある程にその事を考えます。
戦争のために命を落とした多くの人々、その人々の命の上に今日の平和がある事を決して忘れてはいけないし、遺族である私達はこの事を後世につたえていかなくてはならない義務がある様に思えるのです。
私の父は昭和二十年八月十日ロシアと満州の国境、満州里で戦死しました。父も母も三十五歳の時でした。何の遺品もなく死の知らせはたった一枚の紙でした。
母は、現実を受け入れ難く虚しいと思いながらも復員して来る人に中にもしや父がと待ちわびておりました。また、母と私を残して、大陸の露と消えた父は、さぞ無念だったろうと母はよく嘆いていました。
戦後女性の働く場のない厳しい状況の中、母は昼は農家の手伝い夜は裁縫と寝る間もなく働き続け必死に私を育ててくれました。
夜中に目をさますと、薄暗い電灯の下で針を運んでいる母の後ろ姿がいつもありました。母は毎朝顔を洗うと神棚と仏壇に手を合わせ日々生かされている事の感謝と邪念を抱く事なく一日が無事過ごせます様にと祈るのが日課でした。たとえ苦境にあっても自らの足りなさを反省し、決して自己願望の祈りはしない人でした。
母から教えられた事は沢山ありますが、母はよく「苦労は買ってもしなさい、その苦労こそ人の痛み苦しみをわかる事が出来るから、足りない事を幸せに思いなさい」と言っていました。
当時、私は貧乏人の負け惜しみだと思いましたが年を重ね自らの経験の中からその言葉の持つ意味の深さを知る事が出来ました。
母の晩年は不幸にも認知症を患い、徘徊がはじまったので止む無く桃源荘にお願いし、私の勤めが休みの時は我が家で過ごしました。
我が家に居る時の母の笑顔はいつも私の脳裏から離れないのです。母を手元で看てあげられなかった私はいつも悔悟の念に駆られます。
母は自分の生き様の中に沢山の手本を私に残して、平成四年八十一歳の生涯を閉じ、父のもとへと旅立ちました。母のみならず苦難の日々を乗り越えた戦争未亡人の生き方こそ筆舌に尽し難いものだと思います。
戦争がもたらしたものは何であったか遺族である私達には痛い程わかっております。世界の国々が融和し、世界平和が永遠に続く事を願って止みません。
父親の歳を数えると、今年百歳になる。しかし三十三歳で戦死してしまった。
戦争がなかったとしても、この歳まで元気で居られたかどうか分からないが、平和であれば、父親に何かと相談したり、叱られたり、喜んでもらえたりして、少しは親孝行もできたであろうと思う。
私が二歳になった時、母の許に、ニューギニアのガケで昭和十八年十二月十九日戦死という父の戦死公報が届いた。その通知は薄い紙の罫線の入った便箋で、今は私の手許にある。国からはそれだけで、遺品もなにもない。
しかし、父は遺書を母に託して戦地に向かっていた。
「この子を頼む」というものと、「元気で大きくなれ」というわが子への父親の思いが綴られていて、父親の顔も、何も覚えていない私だけれど、胸を打たれた。これも大事に保管してある。
私は、大人になって子供として、しなくてはならないこととして、異国の地、「ガケ」という地に眠っている父親を迎えに行くことではないかと思った。
そんな折、財産法人日本遺族会が中心になって遺児たちを父親達の終焉の地に慰霊巡拝をさせて下さっているのを知り、参加させてもらうことになった。平成九年の秋であった。
慰霊巡拝に行くにあたり、父親に関する資料を同行してくださる遺族会の方から渡されたが、今まで知りたいと思っていた資料があったのを初めて知って驚いた。
昭和十六年十二月八日、日本が真珠湾攻撃をした時、父は朝鮮の陸軍第二十師団に在駐していた。
それから一年一ヶ月過ぎた昭和十八年一月五日、釜山港から南太平洋諸島のパラオ経由で一月二十一日ニューギニアのウエワクに上陸、その第十八軍(猛)の隷下に入り、マダンに転進してフィンシハーフェン地区に前進の途中、米軍の爆撃で死亡と記されてあり、「ガケ」とは知名だとしらされた。
この年の東部ニューギニアの慰霊巡拝は全国からの四十名の方達と一緒であった。その巡拝では、遺児達誰もが、いままで心の奥底にしまいこんで蓋をしていた父親への慕いと寂寞を赤裸々に吐露した。
皆、定年前後のいい歳をした大人が、その時は皆、子供に戻って父親に甘えた。誰もがそれを共有し理解した。
私は、「お父さん、やっと迎えに来れたよ、遅くなってごめんね。待ちくたびれたでしょう。さあ、日本に帰ろう」という思いを込めた。私にとってやっと戦争が終わったように感じられた。
ニューギニアの美しい珊瑚礁の青い海と、青い空、平和の色がそこにあった。
お父さん!
前々から父成島国武ねむる、中国の地に慰霊巡拝し、どんな所で最期を遂げたのかこの目で確認した上で、母さんと生活した想い出話しを報告いたしたく思っておりました。
韮崎市役所を定年退職して韮崎市の遺族会役員を八年間経過したとき、日中友好訪問団の一員として参加させていただき誠に嬉しく光栄に思います。遺族会を通して申し込み参加が決まりました。
父の原戸籍によると戦没地は中国江西省、隊川県隊川飛行場東北方面とありました。
太平洋戦争終戦から六十二年目にして、父が戦没した中国の現地に来る事が出来ました。夏は灼熱はげしく、冬は厳寒肌を刺す砂漠地帯で食物も水も何もないところであり、この地において、親と離れ妻子を残し、国難に殉ぜられた若き父のことを思うと、涙がとめどなく流れました。
今は亡き母さんから聞いた話ですが、父に赤紙が来たのが私満三歳になった頃であり、そして昭和二十年一月三十日、中支にて戦死の公報があったのが満五歳になろうとした冬の寒い日であったそうです。
私の誕生地は甲府市山田町で父は母と共に仕出し店を経営し、結構商売も栄えていたそうです。母は父の召集により店を閉じました。
お父さんへ!
ここから母一人、子一人の困苦の生活が始まりました。母は私を連れて街の会社へ働きに出ましたが、昭和二十年七月六日深夜、甲府空襲、B29の焼夷弾攻撃で市街地一面が火の海となり、私の家も母の会社も全焼し跡形もなく住むことが出来なくなりました。
幸いにして母と私は前日、母の実家へ行っており「九死に一生」、命拾いをいたしました。母は、父親の実家からお呼びの声があり、私を連れて現在の韮崎市旭町北原に引越すこととなり、母の苦難の一歩がはじまりました。
私は甘利小学校一年生として入学、母は馴れない農作業に専念し、家畜の草刈り、田植え、稲刈り、秋から冬は山へ薪木取り、兄嫁からは厳しい仕打ち説教を受けながら、一年間農業の手伝いに一生懸命汗水流し働きました。
一人の子を女手一つで育てることは、農業の手伝いだけでは生活出来ないと考え、兄嫁の家から出て、北原公会堂の管理人として住まいを借りることになりました。
母は村中、近隣の町村まで行商人として歩き、遠くの町には列車で荷物を背負い、司法の目をぬっては闇行商をし、その日暮らしの生活を成しとげました。
私が小学三年生の時から中学卒業まで、母は北原公会堂から韮崎町本町の製糸工場の工員となり、雨の日も風の日も片道三十分の道を歩いて精励恪勤しました。この頃から母は高血圧症や胃の不調を訴えるようになり、勤めながら病院通いも増えました。
私が自分の家を新築したのが二十六歳、結婚は昭和四十一年十二月、二十七歳でした。
その後長女、長男が誕生、母さんには大変苦労をかけましたが、新築の家に七年間、嫁、孫二人と共に幸せな生活が出来ましたことが何より嬉しく、懐かしく想い出されます。
しかし、母は若い時からの無理があったでしょうか、胃癌で昭和四十八年六月満六十三歳でこの世を去りました。
父と母は韮崎市の平和観音像のある公園墓地に安らかに眠っております。終戦まであと七ヶ月で父は無念の戦死を遂げました。現地にて六十二年分の母と私の生活を報告し、涙を流して参りました。
戦争の悲惨さを二度と繰り返してはならない、恒久平和の尊さを常に考え、微力ではありますがこれからもたゆまぬ努力をして参りますと父に申し上げて参りました。
(平成十九年九月十三日 中国の長沙にて)
一週間の休暇をいただき、動揺する気持ちを抑えてフィリピンの地で、父が元気な姿で迎えてくれるような錯覚に陥りながらの飛行四時間あまりでした。
とにかく、父眠るインチカクが私の慰霊地です。
「今晩雨が降ったら、明日晴れていてもインチカクへは入れません。インチカク入りを説明するガイドさんは「後にも先にも団体で行くのは今回のみでしょう。」と付け加えられました。
政府の許可証をとっての行動です。晴れようが晴れまいがここまで来たのです。現地に行かなければ帰るわけにはいきません。そして、父が本当に戦死しているのなら、幽霊になってでもいい、今晩、私の知っている写真の顔で現れてほしいと密かに思いました。
二日目の全日程を終えて夕食についた時、隣り合わせたガイドさんは(野戦重砲兵十二)父たちの部隊の足取りを多くの資料から学び、野重十二の会の何人かの方たちの案内もなさっていたことも知ることができました。
三日目、今日はインチカクです。専用バスとはいえ、改造に改造を重ねてジプニーに乗って細かい説明を受けました。
父たちの部隊は、この道を避けて山間の道を通っていること、一時この地で落ち着いていたこと、平和〔?〕な時はバギオからマニラに出ていたこと、
非常時には伏せていた場所らしき所、橋をやられて動けなくなってしまったこと・・・・・。父の足取りは物語となって語られるほどに説明をして下さいました。
父親の部隊の最後の地、インチカクの山を前にして供養をさせていただきました。
山間に線香の煙が流れ、呼びかける追悼の言葉は父の元へ、そして多くの英霊の方々のおそばにそのまま風が運んでくださったことと思います。
ガイドさんの気配りで、おむすびに梅干し等の昼食を用意していただき河原におりました。
この河原は、何かの折り送られてきた父の写真で見た河原です。友人とくつろいだその場所です。用意された花束とお地蔵様を河原に流しました。これこそ父との出会いだったのではないでしょうか。
明日はフィリピンを発という眠れぬ深夜、マニラの夜景を見入りました。日本で見る南十字星は「父」と決めつけていた私ですが、夜空を眺めると月が雲に隠れてぼんやり見えました。
が、つかの間スーと雲がひいてぽっかり月が、その脇にすばらしく輝く星がふたつ。澄み切ったコバルト色の夜空で父が・・・・・。「お父さんさようなら」流れる涙をかばうように月は又雲に隠れてしまいました。
時代とともに忘れ去られようとする戦争の傷跡、この思いこそ次代を担う子供達には絶対させたくはありません。語り伝えて生きたいと思います。
*涙してはるか眺める山々の 合間に父の面影を見る
*突風に線香の煙流れ行く 父の霊に届くがごとし
*河原にて花束投げしたたずめば 幻の父水の面に見ゆ
*待つ母に帰りし父は石と化し 我が家のぬくみを肌で伝える
*聞き伝の苦き戦の印をば 語り伝えん平和集会
私の父は、日本が敗戦一年前の昭和十九年十月、私がまだ物心つかない一才の時出征をしました。私は父の出征とも知らず、母の背中ですやすやと眠っていた事でしょう。
その後、父は満州に於いて終戦を迎え、音信不通となり、母は世話課に幾度となく足を運び、或いは同部隊にいたといわれる引揚者の方の家を訪ねて父の消息を聞いたりしたとの事です。
新聞の引揚者名簿に胸をはずませ、読んでは溜息を幾度となくつき、また、ラジオの引揚者名の報道にはかない望みをかけてきましたが、生死がわからないまま、十何ヶ月が過ぎ、私が中学二年生の昭和三十三年三月、母は一通の封筒を手に物思いに沈んでいました。父の死亡通知だったのです。
私は、落胆した青白い母の顔をみると、急に胸にこみあげて、しらずしらずに涙が頬を伝わって流れてきました。
その顔を母に見せまいと、本箱の中から一冊のアルバムを取り出しました。そこには軍服姿の父の写真がありました。この写真は、母が仕事の合間や、夕食の後などよく開いては父の思い出話をしてくれたものです。
昭和三十三年四月十七日は、いよいよ父が十何ヶ年異国の冷たい草葉の陰の眠りから、なつかしの故郷へ帰る日となり、甲府の県民会館に於いて伝達式が挙行され、遺家族の指定席についた喪服姿の母は、知事さんや、県議会議長さんの挨拶を聞くにつけ、また、係の人から白木の箱を受け取る時もハンカチで目頭を抑えていました。
帰宅途中、長坂駅に降りた時には、大勢の出迎えの方々が来て下さり、私も父の遺影をしっかり胸にだき、出迎えの方々に迎えられました。
町長さんの挨拶の中で、「遺家族の方々に思いをはせますと胸があつくなり、慰めの言葉もありません。今後のご苦労に対しましては並々ならぬものがおありのことと存じますが」と、優しい思いやりの涙の言葉を頂いた時は、母は声を出して泣きくずれてしまいました。
その夜、家に帰って母に言われた事を思うと、これからは母の片腕となり、母の手助けをしていかなければと心に誓いました。
小さな体で農作業にむち打ち、女で一つで私をここまで育ててくれてありがとう。感謝しています。その母も今は他界し、父のそばで安らかに眠っている事でしょう。
戦後六十六年が過ぎ、私が幼いころ、あの悲惨な戦争で体験した思いを、二度と戦争のない平和な日本を築いていくためにも、子供や孫たちに言い伝えていきます。
今迄、心の中でしかお父さんと呼ぶ事ができなかった六十三年間でしたが、お父さんの最期の地、フィリピンに来てようやく声を出して「お父さん」と呼ぶ事が出来ます。
生まれて十ヶ月でお父さんが召集され、今日迄きましたが、お父さん聞こえますか。お父さんに名前をもらった善彦ですよ、わかりますか。
私も歳を重ね、今年で六十三歳になりました。
あまりの変わり様でわからないかも知れませんね。生涯の中で、一度でいいからお父さんが最期に散った場所で思いきり「お父さん」と呼んでみたいと常に思っていましたが、今回ようやく念願叶い、今日はるばる日本からやってきました。
六十三年という長い年月、話したい事が山ほどあります。何から話したらよいか迷います。
まずは、家族の話をしますね。お父さんのお母さんは、三十五年前にお父さんの戦死を認めず、心の中では今も生きている事を信じながら八十五歳の生涯を終わりました。
母は今年で九十一歳になりました。至極元気にしておりますよ、ご安心下さい。毎日、曾孫の面倒、家の用事をしてくれて助かっています。
私は、昭和四十七年に結婚し、妻は百合子と言います。母の面倒や家の事をよくやってくれています。
子供も長男「仁」三十歳、次男「勉」二十八歳、二人とも元気です。仁は平成十四年に結婚しました。子供は二人います。私には孫、お父さんには曾孫になりますね。長女の「優菜」二歳半、長男の「塁」は生まれて十ヶ月です。
残念でならないのは、昨年の十月に仁の嫁、美紀が二十九歳の若さで亡くなりました。孫達は現在私の家で生活しております。
おもえば、塁は私がお父さんを亡くした年で母親を亡くした事になりますね。二人の孫にとっては運命かもしれませんが、これから先を思うと不憫でなりません。この孫達を一人前にする事が私達夫婦の大きな役目だと思っております。
母は、いずれお父さんの処に行った時にゆっくり話しをするそうですよ。
その時は、二人で心ゆく迄話して下さい。
お父さんをはじめ、国の礎になった多くの皆様のお陰で今日の繁栄があります。この尊い思いを決して忘れません。
お父さん、これからも私達を見守ってください。二人の曾孫の事は特に守ってやってくださいね。
私も、お父さんの最期の地で積年の思いが叶い感無量です。家の事はどうぞ安心していて下さい。最後になりますがどうぞゆっくりお休み下さい。
アメリカの元兵士から返還されたに日章旗には、『山田友冶君』と、父の名前が書いてありました。日本硫黄島協会は、日本兵二万一千人の名簿な中から、妻である私の母の元を探し出し、山梨県庁で受け取りました。
母は自分の胸に日章旗をしっかり抱きしめ、しばらく無言でした。
戦の最中、最後まで父の胸に抱かれていたこの旗は、アメリカ兵士の手によって硫黄島からアメリカに渡り、終戦から六十一年もの永い間、兵士の家の片隅で眠っていたのです。
私は、この旗を見て、弾丸に打ち抜かれた跡、父の体から流れ出た血がにじんでいて痛々しく目に映りました。父はさぞ無念の思いで死んでいっただろうと、戦争の痛手を拭うことが出来ませんでした。
元兵士はこの日章旗を捨てるに捨てられず、その葛藤の中で、何度も旗の存在に悩まされたのではないだろうか。
この旗には兄と私の小さな手形と、母が夫の無事を願い書いた「天地の神を祈りし、我が夫の勲し願い朝も夕も、三ツ星の中の一つは夫なりと夕べの星を懐かしいと思う」が鮮明に残っていました。
父と母は遠く離れていても、お互いに夜空の星や月を見ることで慰めあっていたのでしょう。父からの手紙にも「三ツ星は東の空で輝いているよ」と書かれています。
父は、私達二人がまだ乳飲み子だったために、安否を気遣うハガキを何枚も母宛に送っています。戦場からの手紙を肉親のもとへ運んでいた軍事空港便は、戦場の兵士と故郷の肉親をつなぐ唯一の細い糸でありました。
それが断ち切られたのは、米軍が硫黄島に上陸する日が近い昭和二十年二月十一日のことでした。これは兵士達にとってどんなにか寂しく、悲しいことだったでしょう。
私は、平成二十年一月三十日に硫黄島戦没者慰霊団に加わり、父の眠る硫黄島に行ってきました。
終戦直後、アメリカ軍は島に放置された日本兵士やアメリカ兵士会わせて二万七千人余りのおびただしい遺体と死臭を隠すために、飛行機から根付きがよく成長の早い銀ネムの木の種を大量にまいたといわれています。
その銀ネムの木は、硫黄島全域で緑の低い茂みを作っていました。
父のいた壕の前で手を合わせ、「お母さんも元気だよ」と報告しましたが、母は今年三月三日力尽き、辞世の句「風雪に耐えて紅梅 馥郁と」を残し父の元へ旅立っていきました。(紅梅は母の書道の雅号です。)
私は、母を送る日、遺影の額の中に日章旗を写し入れ、祭壇に祭りました。
それは、夫の帰りを最後まで待ち望み、諦めなかった母の思いを伝えるために・・・。
私の父は、昭和十九年五月に甲府歩兵第四十九連隊に入隊しました。その六月に、名古屋より第四十三師団百三十五連隊となり、サイパン島へ向う。
サイパンでは、一番に高い山でも五百メートルにもみたない低さで、下はジャングルである。山頂は畳二枚ほどのタポッチョー山での激戦で、父や多くの方々の最期の地となりました。平成十八年七月に慰霊友好親善でこの地に立つことが出来ました。
父さん、逢いに来ましたよ。
父が昭和十九年七月十八日に戦死したことを、母より聞きました。それは日本国の誇りでもあったのでしょうか。何度も聞きました。
兄は三歳、私は母のお腹の中でした。これからが女一人で私達を育てる大変な日々の始まりでした。命をかけて戦地へ向う父の心を思うと、言葉になりません。
愛する家族を残して・・・。
私は写真でしか知りませんが、母は私が物心に芽生えた頃に、父が日本を離れる時の母への手紙に、お腹の子供を案ずる父の心が書いてありました。
私が成長するまで母が大切に保存し、私に話してくれました。
お母さん、ありがとう御座います。それは、今でも私にとって一番の宝物です。
兄も、年少の頃から家を手伝い頑張りました。とっても優しい兄さんでしたが六十年、四十四歳で他界しました。
どんなに苦しくてもいつも明るい素晴らしい母も、平成元年七十七歳で亡くなりました。天国で仲良くしていると信じております。
父の最期の地で、六十二歳となった私が心から父の存在を身近に感じ、お父さんと呼ぶことが出来たことがとっても嬉しいです。
私も、二人の女の子に恵まれました。
父さんの曾孫の待つ日本に一緒に帰りましょう。
おとうさん。
マリアナ諸島慰霊親善訪問に参加する朝、仏前に父に会いに行って来ます、と報告し、うれしさと不安を抱きながら家を出ました。飛行機の窓からサイパン島の小さな青い島が見えた時、涙があふれ出て止まりませんでした。
私の父は地獄谷が追悼場所で、山のふもとの「サンロッキーチャージー」と言う谷の入口に祭壇を作り、追悼文を読みました。
父のヒザにだっこされたこと、山羊の乳を一緒に飲んだこと、近所の方が出征する時は、私の家の馬で駅迄送り、手綱をにぎっていた父、自分が出征する時は歩いて近くの八幡さんまで行き、挨拶する時、胸をつまらせ母と妻と子供をたのむと言ったのを覚えています。
私はつんつるてんの着物に下駄をはき、一番前で話しを聞きました。国を思い、家族の幸せを願って戦地へ行き、七ヶ月で戦死、三十三歳の短い命でした。
それから母の苦労は大変なものでした。貧しくても手を取り合い、さみしさに打ち勝ってきました。
「お父さん、私達姉妹は丈夫な身体に育てられ、今はそれぞれ幸せな人生を過ごしていますので安心して下さい。」
悲しさ、さびしさ、つらさを体験した分、うれしさや楽しさ、幸せを何倍ももらいました。
父との数少ない思い出が、慰霊中、走馬灯のように頭をよぎりました。
最後の指令塔から地獄谷においつめられ、上司六名は切腹し、部下に後に続けと見本をみせたそうです。
部下達は、ほとんど谷から身を投げて、玉砕したと聞き涙が涸れる程泣きました。今もアメリカに生々しい写真が残っているそうです。
私は、持参していった千羽鶴を花束のように包み、赤いリボンで結んで、ばんざい岬から海に向かって投げて「お父さん」と大きな声で三回呼びました。
この「ばんざい岬」では、女性や子供達がはずかしめを受けないように、みんな「ばんざい」と言いながら飛びおりたそうです。
毎日毎日の個人慰霊祭で、涙々で終わりましたが、心にあいていた大きな穴が少しずつうめられてゆくような心が洗われたような、すがすがしい気持ちになりました。
参加出来、父に会えて本当に良かったと心から思いました。反面、父より年取った子供達を見て父はどんな気持ちだったでしょう。
思い出は心の宝、今日のこの時をこれからも大切にしていきたいと思います。
そして、私達が次世代の人々に伝えなければ何も残らないと言うことです。
二度と戦争はしないと、子孫末代迄守っていってほしいと思います。
きざまれてゆく時間に悔いを残さないように、これからも機会あるごとに恒久平和を呼びかけて行きたいと思っています。
昭和二十年八月、戦争が終り母の苦難が始まった。
父の帰りを待っていた母へ、一通の葉書が届いた。フィリピンより復員した軍医が父の死を知らせてくれた。
(手紙文、拝啓 小生は河西君と同部隊の軍医にて御座以。甚だ申し上げたき儀に言えども、ご主人には比島にて名誉の戦病死を遂げられ以。応召以来同君は小生「小隊長」の伝令なり、その因縁浅からざるものあり、同君の死はまことに遺憾の極みにて哀惜に堪えず以、一度参上詳細ご報告とは存じて居りても、諸種の事情にて、小生も旅行不可能ににて不敢取右報告迄申上候。敬具 東京都大森区雪ヶ谷 勝田康一)
その年の九月、山梨県の世話課より、死亡告知書が届き、父はフィリピンのルソン島バギオ北東の山岳地インチカクに於て、二十年六月四日マラリヤで戦病死した事が知らされました。遺品があれば届けるようにとの事。
父は、出征する前に、外地で死んだ時の事を思い、髪の毛と手足の爪を家に残して置きました。それを小箱に入れ受取りました。母は箱を開けて確認したそうです。葬式は二十二年の三月に行いました。
父は、十九年の九月、東京第一陸軍病院へ衛生兵として召集され、その年の十一月二日乗船する葉書を、軍の検閲を避ける為、差出す住所を変えて母に知らせてきましたが、手紙ではどこへ行くのか推測するしかありませんでした。
船の通過地と月日は、愛知県の比島観音の役員をしている、亀井亘様に調べてもらいました。この方も遺児でフィリピンへは遺骨収集に十数回も行き、ルソン島は詳しい人です。十一月三日門司出港、宇品、呉から合わせて船団を組み、南方へ向かいました。
父の乗った船は、台湾基陸寄港後、マニラに上陸しました。日本郵船の日洋丸でしたがこの船は、レイテの西サンイシドロ湾で撃沈されました。
母一人になった我家は、まだ子供の私達には悲しみも解らず、母の後へ続いて歩いただけでした。母一人で家や生活のこと、子供や近所の事と、つらい事も大変ありました。
私の家は分家で、本家がすぐ近くにあり、父の母や兄夫婦がいましたが、父が亡くなれば母はよそから来た嫁です。今までとは同じにしてもらえません。しかも戦後の混乱期で自分の生活が中心で、人の面倒までは見てくれません。
私達が小学校の頃は、農繁期には農休みがあり、家の手伝いをしました。夏は田植えや畑の草取り、秋は稲刈りや麦蒔きと、子供の私達には多くの手伝いは出来ませんが、母は、一人で農作業をするより、子供が近くにいれば安心感と寂しさをわすれられたと思います。
妹は、十九年生まれで、幼かったので、畑へ傘をさして日陰を作り、寝かせました。野良へ行く時、寝ていれば紐で柱に結えて目覚めても一人で外に出ないようにして行ったそうです。又、同じ境遇の戦争未亡人の人と、農繁期には互いに手伝い合い、切抜けてきました。
昭和五十二年、山梨県遺族会で三十三回忌のフィリピン戦跡巡拝が有り、私も行って来ました。母にも行くよう勧めましたが、今迄無理して働いた体が病気がちで、現地で皆に迷惑をかけては、と行きませんでした。
母は、夫の戦没地を自分で見たい気持ちを持ち続けていました。マニラ上空で陸地が見えた時、父はこの国まで来て、死んだのかと涙が出ました。
各戦跡で慰霊祭を行い、父の眠る山岳地へは行けず、山下道東側のドンドンで、故人となられた、富士川町の昌福寺の岩間僧侶に経を上げてもらい、そこで小石を拾い持ち帰りました。
母に写真や小石を渡し、現地の話を聞かせると、長年の思いが少しでも叶い満足そうでした。曖昧な戦死公報で、場所も月日も正確でない人が多い中、ある程度正確な事が解っただけでも幸せです。
母がほっと一息ついたのは、私達子供が成人してそれぞれ結婚し、親の責任を終えた時だと思います。家で孫の子守をしながら、近くの畑の草取りをして一日を過ごしていました。
母も、七十才前半より認知症が少しづつ進み、私は妻と共働きだったので、母を老人ホームへ預ける事になりました。施設で十三年程お世話になり、その後病院を二ヶ所移り、平成十四年八十八才で父の元へ旅立ちました。
母も晩年、家で過ごせる体であったなら、戦後の苦労も忘れる事の出来た生涯を終えられたかも知れません。
私が一年生の夏、町長さんが家に見え、石原君に公報が入ったと話されました。
私には何のことかわからなかったが、おじいさんが私達孫八人とおばあさん、母に声をかけ、集まると「父がフィリピンから帰らない」ことを話された。
私は、絶対「そんなことはない」、父は強く賢い人だから帰って来ると信じて、夜、何かの音がすると帰って来たのではと飛び起き、玄関に行ったことは何度もありました・・・。
〈父の手紙〉
山梨県西八代郡市川大門町一丁目
石原二三様方 とし子様
今日も相変らず暑い日で、お前だち水泳ぎの姿が目にうかびます。
からだを大切にしっかり勉強してください。
おじいさん、おばあさん、おかあさん、皆の言い付けを守って、お父さんはそれを楽しみに働いて居ります。
返事はいりません、さようなら
東部七五 鍛錬隊
石原 正
と言う文面です。
父は、その時三十七才でした。私は、この手紙が父の最後の言葉ですので、自分として大変なこと困った時は、何度も何度も読みお守りとして今迄生きてきました。
そして、私もやっと父の戦死の地に慰霊友好親善訪問団に参加する機会にめぐまれ、平成十四年十二月一日から七日間フィリピン、ルソン島アンチポロに向け出発しました。
私達はA班ということで、添乗員をふくめ二十二名の班員でした。私は妹と二人で仲間に加わりました。東京(成田)発九時四十五分、マニラ着一時二十五分でした。そこから無名戦士の墓にお参りし、コレヒドール島慰霊巡拝と私達A班の慰霊が始まりました。
A班の松井さんが、ハモニカを持って来て下さり、慰霊の場所で「ふるさと」「君が代」「海ゆかば」「里の秋」等奏でてくれました。
私は「フィリピン」の地におりて、父に会えることに胸あつく、松井様のハモニカの音に涙、涙でした。
おとうさん、と大きな声で呼びました。
「フィリピン」の墓石に手を合わせ、父の面影を想い出し、生きてきたことを報告しました。
そして私達八人の孫、子供を育ててくれた祖父、祖母母には本当に感謝しています。
終戦も知らず、その八月十八日、無念に逝ったお父さん。
嬉しい時悲しい時、天国から見守ってくださる父を忘れた事はありませんでしたよ。
一昨年、妹が母に先立ち他界。昨年十一月七日は母が他界。天国で再び逢う事ができたでしょうか。
昔話を沢山語り合っているかしら。
私からは、父と別れてからの一端と現在の報告です。
戦争の残した計り知れない事柄、悲しみ悔しさ、苦しみは言葉に言い尽くせない程でした。
父の帰りを心待ちする日々、母は「お父さんが帰って来た夢を見たよ」と話してくれる事もあり、楽しみにしていた三年後、なんと戦死の知らせは悲しい事でした。
横浜から山梨に。母の実家の物置から母子寮に移り、四畳半ひと間の狭い生活。工夫しながら暮らしました。七年後私は就職。妹も就職して出寮、そして二人は結婚。私は保母の資格を取得して保育所に就職。私の夫は自営の電気工事業を始める。
そして二人の息子も生まれる。母が育児に協力してくれたので、昭和四十七年六月に夢だったマイホームの完成。広い家で不自由ない幸せの到来。妹にも一男一女が生まれる。今はその子供達四人も結婚し、ひ孫は八人です。
働き者で頑張り屋の母、求めた畑に野菜を作り、私が三十五年間保育所に勤められたのも、母が居てくれたからです。育ててくれた長男は高校の教員になり、次男は家業を受け継ぎ父親と働きながら学校の講師もしています。
それから、母は編物も大好きだったので、家族に沢山のチョッキや小物を編んでくれました。母の恩は数える事ができない程です。有難い魔法使いの母さんを「お父さん、天国で再会の妹と一緒に、沢山褒めてあげてね」安らかでありますように・・・。
別れる時に、駅前で買ってもらったクレヨンと「一生懸命に勉強するんだよ」と頭を撫でてくれた、あの手の温もりが嬉しくて私の頑張れた「ひと言」でした。
「ありがとう!お父さん」
現在の日本の平和を築いてくれた一人ひとりを、日本中の遺族会は戦争を風化させない様にと、尊い英霊を偲び、行事等は忘れずに実施しています。
それが次の世代へと引き継ぐ、私達の責任だと思っているからです。
いつも母は父を偲び晩年の幸せに感謝してくれた事が何よりです。ご冥福をお祈りしています。
五月二十二日、妙本寺において勝山地区の慰霊祭がおこなわれ、七十二年の歳月が走馬灯のように脳裏をかすめた。私の家は日蓮宗で、信仰が深く、私にも守護霊が大勢ついている。現実的にはそんざいしないでも観念的にはいつも身近に感じられた父。
あらゆる面で教育してくれた明治の祖母。優しくて、強くて厳しくて、お国のために一人息子を捧げたと、涙ひとつ見せず、私の魂の中に乗りうつった。
私は勉強が好きだった。いろいろな事に挑戦し広く学んだ。そのせいで、何の話にも仲間入り出きる。時には運命に逆らいもしたが、宿命には勝てなかった。努力にも勝る知恵を頂いた。有り難いことだ。
今は九十五歳の母の介護、もう介護五だ。何を言っても通じない言葉も出ない。もう三年だ。又、夫は二十四年間一日四本インシュリンを打ち続けている。この年月、合併症も出さないで来たことは、本人の努力意志の強さはもとより、私のカロリー計算と食事もあったと自負している。
現在のけたたましい時勢と生活の中で、戦争中まで振り返るのは難しい。もうすぐ六十六回目の終戦記念日が来る。私は、平成十年十二月にフィリピンルソン島リンガエンに父を迎えに行った。
八日間泣きに泣いた。それから私の第二の人生を始める学校へ行き、本を読み、字を絵を書き、パソコンも学び、五十五歳で車の免許を取り今、家の中で活躍している。
子供や孫たちも、皆立派に成長して、良いニュースばかり聞かされ、幸せな日々を送っている。こんな時、この文集の話しを戴き、思いついたまま今を書いてみました。
あの大変な戦争から立ち上がり。この度の東日本大震災、福島の原発事故。やはり日本人は強い。スバラシイ、いつも力を合わせ自分自身を信じ出来事にぶち当たり、素敵な国づくり、人づくり、自分づくりに励みたいと思いつつ・・・・
終わりに私達遺児は、いつも世界平和を祈り皆様の健康と幸せを切に祈念いたします。七十に歳老老介護
第三の人生に向かって。
一般財団法人山梨県遺族会 事務局 055-252-7664
山梨県福祉保健部国保援護課 援護恩給担当 055-223-1454