トップ > 組織案内 > 県教育委員会の組織(課室等) > 埋蔵文化財センター_遺跡トピックスNo.0210平野遺跡
ページID:27487更新日:2015年12月14日
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富士川町の遺跡
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【遺跡概要(いせきがいよう)】 所在地:山梨県富士川町(旧増穂町)景勝寺字平野 時期:弥生時代後期末 遺跡の性格:集落遺跡 発見された遺構:弥生時代後期末の竪穴住居34軒ほか 調査主体:山梨県埋蔵文化財センター(第1次)、増穂町教育委員会(第2次) これは、富士川町平野遺跡で発見された石包丁(いしぼうちょう)と呼ばれる弥生時代の稲の穂(ほ)を摘(つ)む道具です。写真のもののように、半月形(はんげつけい)をしているのが一般的で、孔(あな)をもつものと、もたないものがあります。また、つくりかたにも2種類あり、扁平(へんぺい)な石を磨いてつくるものと打ち欠いてつくるものとがあります。 写真のものは磨いてつくられた磨製石包丁(ませいいしぼうちょう)です。 平野遺跡出土の石包丁は長さ7.2cm、幅1.9cm程度の小型のもので、刃部(じんぶ)を片方の面から磨いてつくりだしています。 【「石包丁」という名称について】 石包丁という名称は、大正時代に、グリーンランドのエスキモーの使用している調理用ナイフとその形状が似ていることから名付けられました。また、使用目的も同様に調理用具であるとみなされておりました。その後、研究の進展により、中国の華北で用いられている鎌と共通する部分が多いということから、農産物(のうさんぶつ)、特に稲の収穫(しゅうかく)に使われたというように考えられるようになり、現在に至っております。 【石包丁による稲の収穫】 現在稲の収穫は、稲を根元から刈り取るいわゆる根刈りによってなされることが普通であります。しかし、写真の石包丁を使っていた弥生時代当時では、稲の穂を摘む穂首(ほくび)刈りが一般的でありました。また、奈良時代に正税帳(しょうぜいちょう)という諸国の税の出納状況(しゅつのうじょうきょう)や現在の量を記録した帳簿(ちょうぼ)があり、そのなかで、納める米は穎稲(えいとう)という穂首刈りをしたものを納めるということになっております。平安時代には脱穀(だっこく)した米を納めるようになりますが、穂首刈りしたものも納められており、平安時代までは稲の収穫は穂首刈りで行うという伝統が続きました。 【弥生時代石包丁の県内出土遺跡分布図】 弥生時代の石包丁は平野遺跡以外にも、甲斐市(旧敷島町)金の尾(かねのお)遺跡、韮崎市堂の前(どうのまえ)遺跡、下横屋(しもよこや)遺跡、南アルプス市(旧櫛形町)六科丘(むじなおか)遺跡、北杜市(旧明野村)屋敷添(やしきぞえ)遺跡、甲府市塩部(しおべ)遺跡、山梨市堀ノ内(ほりのうち)遺跡でも出土しています。
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