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ページID:99899更新日:2021年6月3日

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平林2号墳 金銅製飾金具とその意匠

平林2号墳に関するトピックス

  • 0059平林2号墳-副葬品-
  • 0079平林2号墳-青銅鏡-
  • 0102平林2号墳-ガラス玉-
  • 0202平林2号墳-馬具類や装身具類-
     
  • 0240平林2号墳-勾玉-
  • 0337平林2号墳-勾玉-
  • 0462平林2号墳-須恵器-

  • 0495山梨県初!?平林2号墳の金銅製冠飾
     
 

1)平林2号墳について

  平林2号墳は、甲府盆地北側の笛吹市春日居町吾妻山にあります。古墳の周辺には40基ほどの円墳や積石塚があり、これらを総称して春日居古墳群と呼ばれています。古墳群の年代はおおよそ6世紀~7世紀(今から1500~1400年前)です。
古墳は、1998年に発掘調査が行われ、2000年に調査の成果をまとめた報告書が刊行されています(山梨県埋蔵文化財センター報告書第175集『平林2号墳-西関東連絡道建設に伴う発掘調査-』)。
平林2号墳は横穴式石室をもつ円墳でした。その石室の中には、青銅鏡や鉄製の武器・武具、馬具、冠飾、勾玉、ガラス玉などの豪華な副葬品が納められ、石室の外では、須恵器など見つかりました。これらの出土品は、一括して山梨県の指定文化財に指定され、一部は考古博物館に展示されています!
現在この古墳は、もともとあった場所から移築して、復元されています。詳しくは、『ててっ!やまなし古墳・お宝マップ2 甲府盆地北東部編』をご覧ください!

所在地:山梨県笛吹市春日居町
時代:古墳時代終末期・飛鳥時代
報告書:山梨県埋蔵文化財センター報告書第175集『平林2号墳-西関東連絡道建設に伴う発掘調査-』
調査機関:山梨県埋蔵文化財センター
【※今回紹介する出土品は発掘調査報告書に掲載されていませんでしたが、北澤宏明2020『研究紀要』36号 山梨県立考古博物館・山梨県埋蔵文化財センターで資料を紹介しています。】

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【写真1】平林2号墳(発掘調査時の様子)

2)金色に光るコレは・・・

  それでは、今回ご紹介する出土品をみていきましょう。古墳から小さな破片の状態で発掘されたようで、そのなかでも比較的わかりやすい2点を紹介しましょう。【図1、写真1・2】

表面と裏面に鍍金(金メッキ)がされているので、金色に光り輝いています。ゴージャスですね!

厚さは0.25mm~0.3mmほどのとても薄い製品で、いずれも小さな破片でもともとの形状は分かりませんが、輪郭を文様のように削ったり(透かし彫り)や孔をあけて金銅製の針金を通しています。2をみると針金に小さな丸い飾りが付いていますね。

また、「点打ち」で装飾を施しています。点打ちは、彫金技術の一つで、たがね工具により表面をへこませる技術です(鈴木2004)。点を打って線のようにみせる方法です。【図2】

点打ちによる装飾には、輪郭に沿うもの、平行多条直線状にまっすぐの方向に数本打つもの、くるんと丸めた唐草文風の文様などが見られます。さて、この金銅製品はいったい何に使ったものでしょうか。結論から言いますと‥‥正確にはわかりません(笑)。装飾品的な物であると考えられるので、今回は、金銅製飾金具という名称を使用していきます。

実はこの金銅製飾金具と似たものが、平林2号墳から出土しています。それは、遺跡トピックスNo.495で紹介した金銅製冠立飾です。材質も同じで、点打ちによる文様や孔を開けて、針金を通すなど共通する要素をもっています。また孔や点打ちはサイズも同じであり、金銅製冠飾に付属する製品の可能性があります。

 平林2号墳の副葬品の年代は、7世紀ごろと考えられ(北澤2020)、時代で言うと古墳時代終末期・飛鳥時代になります。

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【図1】金銅製飾金具(実測図)

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【写真2】金銅製飾金具1

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 【写真3】金銅製飾金具2(オモテ)

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 【写真4】金銅製飾金具2(ウラ)

 

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 【図2】点打ち模式図

 

3)金銅製飾金具のもつ意匠の特徴

 この金銅製飾金具で注目していただきたいのは、点打ちによる平行多条直線状の装飾です。この装飾こそが、この金銅製飾金具が物語るとても重要なものです。
すこし、詳しく見てみると上部(図1での上側)に向けて、点打ちの大きさが小さくなったり、点打ちによる線彫りの長さを変えたりしています。

4)毛彫りと仏教意匠

 そもそも平行多条直線(田中1980)【図3】とは、たがね工具を使用して金属板の表面を削る、「毛彫り」【写真4・5】という技法によって施されます。平行多条直線などの文様をもつものを「道上型毛彫」(田中1980、古川2019)と呼んでいます。

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【図3】法隆寺玉虫厨子飾金具(山本1996掲載画像からトレース)

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【写真4】甲斐市竜王2号墳出土の金銅製杏葉(ぎょうよう)(7世紀中頃)

※毛彫りをもつ馬具のなかで、最終段階の事例であり文様が簡略化されている。

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【写真5】毛彫りの様子

  この毛彫りを使用した彫金技術は、聖徳太子が創建した法隆寺などの仏像の宝冠や玉虫厨子に代表される、6世紀後半から7世紀、つまり古墳時代終末期・飛鳥時代の仏教荘厳具や馬具・冠飾・装飾付大刀などの古墳の副葬品に施されています。
古墳時代終末期・飛鳥時代といえば、ちょうど日本(当時は倭国)のなかで仏教文化が百済から正式に伝わったころで、蘇我馬子が創建した飛鳥寺(法興寺・元興寺)や先述した法隆寺などの寺院が造られ始めました。
『日本書記』敏達6年(577年)11月朔月には大別王という人物が百済国王から僧侶や尼とともに造寺工や造仏工を与えられたと書かれており、はじめて寺院づくりの工人と仏像つくりの工人が日本に招かれました。また、飛鳥寺を造営する際(588年)には、百済から僧や寺工・鑪盤博士(ろばんはかせ)・瓦博士・画工博士が招来されました。このように仏教・寺院の導入において、百済と深い関係がわかります。
このころの仏像製作者に飛鳥寺の仏像を造った鞍作止利(鳥)(くらつくりのとり)がいます。鞍作という姓にあるように、馬具づくりも行っていたと考えられています。つまり、新たに伝来した仏像などの技術や仏教意匠が、馬具をはじめ他の金工品にも用いられたことが想定できます。
そして、金工品の文様は「道上型毛彫」など仏教意匠を施したものへと統一されるようになります(古川2019)。

5)金銅製品飾金具の評価


以上のように、小さな根拠ではありますが、平林2号墳の金銅製飾金具は、仏教意匠をもつ製品であると考えられます。しかしながら、用いられた文様を施す技術は毛彫りという新しい彫金技法ではなく以前からあった点打ちという技法です。
点打ちは、「道上型毛彫」が登場したころ、双龍環頭大刀などの金工品に見られます。
「道上型毛彫」をもつ金工品は、日本国内でいくつかの工房で製作されていたことが指摘されており(高松2011、古川2019など)、可能性としては、当時最新の仏教意匠を取り入れながら点打ちの技術を以前から使用していた工人・工房で製作された製品と考えています。
金工品は、高度でとても専門的な技術によって造られます。仏教とともに新たな文化が伝わり、主たる技術や意匠・文様も大きく変わったようです。
こういった変化に対応しながら、新たな意匠などを取り入れ(要望され)モノづくりをする当時の工人・工房の姿がおぼろげながら見えてくるような気がします。

参考文献
北澤宏明2020「山梨県笛吹市平林2号墳出土金銅製品の装飾意匠」『研究紀要』36 山梨県立考古博物館・山梨県埋蔵文化財センター
鈴木 勉2004『ものづくりと日本文化』橿原考古学研究所付属博物館
田中新史1980「東国終末期古墳出土の馬具-年代と系譜の検討」『古代探叢-滝口宏先生古稀記念考古学論集-』早稲田大学出版会
高松由2011「棘付花形杏葉の変遷と彫金技術 7世紀における新来技術の導入と定着」『待兼山論叢 史学篇』45 大阪大学文学部
古川匠2019『古墳時代の装飾馬具生産体制』雄山閣
山本忠尚1996『唐草紋』日本の美術No.358 至文堂

 

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