トップ > 組織案内 > 県教育委員会の組織(課室等) > 埋蔵文化財センター_遺跡トピックスNo.0266音羽遺跡
ページID:34565更新日:2017年6月13日
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甲府市の遺跡(甲府城関連・曽根丘陵公園を除く)
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遺跡の概要音羽遺跡は、遺跡トピックスNo.238でも紹介いたしましたが、甲府盆地を北西から南東に向かって流れる荒川によって形成された扇状地上の閑静な住宅地に広がる遺跡です。 県職員宿舎建替えに先立ち、1992年(A区)・1995年(C区)・1996年(B区)度の3カ年度にわたり発掘調査が行われ、弥生時代後期、古墳時代後期~奈良時代にかけての住居跡や土坑、溝状遺構等が確認されている集落遺跡であることがわかりました。
〔写真1.〕音羽遺跡A区作業風景
〔写真2.〕音羽遺跡3号住居跡〔写真3.〕3号住居跡出土状況
〔写真4.〕縄文時代の石鏃 石鏃について(1)矢の先に付けて用いる石で作ったやじりを石鏃とよびます。縄文時代の石鏃は石を打ち欠いてつくった打製の石鏃でしたが、弥生時代になると頁岩(けつがん)や粘板岩(ねんばんがん)等の、はぎやすい石を薄くはぎとり、砥石(といし)で研(と)ぎながら磨いて作った磨製の石鏃が主流となります。縄文時代の石鏃に比べると大型で重いものが多く見られます。 〔写真5.〕磨製石鏃 石鏃について(2)石鏃は、縄文時代から弥生時代前期頃までは、ほとんどが薄い三角形を呈する小型(1cm~3cm大)のものが主流でした。シカやイノシシを獲るためには軽く、速く、遠くへ飛ばせる石鏃が狩猟具として充分有効であることから、大きく形を変える必要は無かったものと思われます。 それが、突如として弥生時代中期から、形もほぼ三角形から木の葉形が主流となり、大きさも大きくなるなど分厚く重い石鏃が出現しました。 重量化された石鏃は打撃力が増し、磨くことにより深く突き刺さり、殺傷能力が高い石鏃、写真5.のような磨製石鏃になったのです。 〔写真〕6.音羽遺跡出土の磨製石鏃 〔写真〕7.磨製石鏃復元品(考古博物館HPより)
このように、大きな磨製石鏃は戦いの道具と言われています。 すなわち、縄文時代までの石鏃がもっぱら小動物の狩猟の道具として使用していたのに対し、弥生時代の石鏃は人間を対象とする武器に変容したものです。 実際、西日本の遺跡では石鏃が人骨に刺さった状態で発見された例もあります。 弥生時代が本格的な農耕生産のはじまった時期でもあり、農地や水利権など、小国家間の抗争もあったのではないかと考えられています。 しかし、武器としての磨製石鏃は、弥生時代の終わり頃に入って鉄鏃や銅鏃などの出現により消滅していきました。 弥生時代は、日本において「戦争」がはじまった時代とされています。 弥生時代って結構、物騒な時代でもありました。
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